お正月が憂鬱でたまらない
2015/12/17
今日は午前中の人のまだ少ない時間に街へ出かけました。
年賀はがきと、お年玉用のポチ袋を買うためです。
年賀はがきはイラストが印刷されてお年玉付きの3、4枚でパックになったやつです。
虚礼廃止主義と言う訳でもないのですが、私は年賀状は殆ど出しません。
ごく親しい友人に数枚出し、あとは来た人に返す(何様なんだ私)という形で、自分から出すのは本当に限られた人にのみです。
年賀状も一種の近況報告なので、今の私には辛いものがあるのです。
自分で毎年PCで作るなんてことはとても出来ず、友人たちの凝った年賀状に毎年感嘆してしまいます。
私など、印刷されたイラストの隅に二言三言書くだけなのに集中力が続かず、自分にとってはこれだけでも大仕事なのです。
年末、除夜の鐘が鳴るあたりまではそうでもないのですが、年が明けるといきなり憂鬱な気分になります。
これはうつになって初めての年明けだった今年の始めもそうでした。
年始は、うつの身には色々と憂鬱なイベントが多いからだと思います。
うちでは毎年、夫婦揃って初詣の際に厄除けのお祓いをしてもらっています。
電車で15分くらいのところにあるその神社は、近辺では厄除けで有名な所で、調べたらたまたま私と相性が良い神社だそうなので(私もこの神社が好きなので嬉しかった。神社と自分の相性ってあるらしいですよ!ちなみにダンナは伊勢神宮です)毎年お祓いをして「家内安全」のお札とお守りをもらって来ています。
──しかしこれが、待ち時間が長く、すごーく混むのです。
年明け早々、混雑の中に長時間身を置くのが嫌なので、毎年出来るだけ早朝に行っているのですが、着いた頃にはそれでももう長蛇の列でうんざりします。
そう広くない待合所で、子供のぐずり声や赤ちゃんの泣き声、人の大きい話し声の猛攻撃を受けながら、じっと座っているのはもはや拷問です。
動悸がしてくるので、私は途中ダンナを残して何度も外へ出たりしています。
今年は耳栓をして行ったので来年もそうするつもりですが、新年早々、どうして耳栓をして鳥居をくぐらねばならないのか…。情けなくて涙が出ます。
特別な信仰心がある訳でもないのにどうして毎年律儀にお祓いをしてもらっているかと言うと、数年前にダンナが厄年で、その時私も一緒にお祓いしてもらったのが始まりなのです。
前厄、本厄、後厄と3年間やりました。
ところがダンナの厄が明けても、一度行き始めてしまうと「今年はやーめた」がなかなか出来ず、ずるずるとその後も毎年通っている訳ですが…うーん。
……こんな心構えで果たしてご利益があるんでしょうか。
初詣の喧騒の凄さは私にとっては殺人的で、毎年帰宅すると倒れこんでしまいます。
それでも何故か行かなきゃならないと思ってしまう、初詣なのです。
次に憂鬱なのが、ダンナの実家と自分の実家に行くことです。
皆そうでしょうが、自分の実家はまだしも、ダンナの実家へ行くのが苦痛でなりません。
義父はもう他界していて、義母は義姉の家に同居しています。
だから実家と言っても義姉の家に行く訳なのですが、今年の始めは前日から憂鬱のあまり具合が悪くなったほどです。
うつの状態が今よりももっと酷かった私は、今年はパスさせて欲しかったのですが、ダンナはいつも通り「我関せず」な人なので、「行ける?大丈夫?」などという気遣いの言葉などあるはずもありませんでした。
そんな訳でさっさと日取りを決められ、私は薬を多めに飲み、なんとか気力を振り絞って行ったのです。
義母も義兄も義姉も気の置けない良い人で、何も憂鬱になる要素はないのですが、とにかく人に会うのが億劫で仕方がありません。彼らにはうつで会社を辞めたことを話していないので(これからも話す気はありません)、いつもと変わらない「元気な自分」を演じなければいけない訳です。
精一杯明るく振る舞い、「営業用」の自分を揺さぶり起こし、気を遣って話題をふり、甥っ子や姪っ子になけなしのお年玉(ダンナ側、私側で合計4人の甥っ子、姪っ子がいるので、毎年痛い出費です…泣)をあげ、一緒にテレビを観ながら食事をし………ああもう今考えただけで憂鬱になってきました。
考えるに、年始は喧騒の中に身を投じる機会がどうしても増え、そして自分の精神状態に関係なく平静を装って色々な人達と会わなければならず、非日常の中で自分の普段の生活ペースも乱されることになるため、心身共に酷く疲弊してしまうのだと思います。
不安定さもイライラもMAXに達しているのに、それを表に出せない数日間……。
ところで、先日ある方のブログを拝見していたら、「アンガーマネジメント」という言葉がありました。
「何ぞや?」と思い調べてみたら、「アンガーマネジメント」とは、怒りの感情を管理して、上手く付き合い、怒りのエネルギーをポジティブに使おうというプログラムなんですね。
こんなものがあるのを知らなかったので、色々調べてみました。
「怒り」の感情というのは生死に直結する感情で、動物が自分の身の危険を感じた時に生じるらしく、この「身の危険」というのは、身体的なこと、有形な事柄に限らず、自尊心や名誉などの無形の事柄まで含まれるらしい…。
うーん。それじゃ始終イライラしているって言うのは、始終「身の危険」を感じてるってことになる訳ですよね。
恐らく私の場合は、喧騒によって「平穏でいられる自分」を乱されるので、「身の危険」を感じているのかもしれない…と言ったところでしょうか。
怒りを管理するための心得、というのを読んでいたら、「イライラを書き出す」「イライラを点数化する」「呼吸を大きくゆっくりにする」…等の中に、「『大丈夫』などの呪文を用意する」って言うのがあって、びっくりしました。
──私、もうやってるじゃん(笑) ←過去記事に飛びます
私の場合は、喧騒の中で周りの雑音に脳の中が掻き乱され、不安定になるのを防ぐためのものですが、不安定になるというのはイライラした感情も含まれている訳ですし…。
来年の始めは「必要ない必要ない」と「気にしない気にしない」と「大丈夫大丈夫」と、三つ唱えることにします。
──ますます怪しい人のようだ、私……(笑)

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年賀はがきと、お年玉用のポチ袋を買うためです。
年賀はがきはイラストが印刷されてお年玉付きの3、4枚でパックになったやつです。
虚礼廃止主義と言う訳でもないのですが、私は年賀状は殆ど出しません。
ごく親しい友人に数枚出し、あとは来た人に返す(何様なんだ私)という形で、自分から出すのは本当に限られた人にのみです。
年賀状も一種の近況報告なので、今の私には辛いものがあるのです。
自分で毎年PCで作るなんてことはとても出来ず、友人たちの凝った年賀状に毎年感嘆してしまいます。
私など、印刷されたイラストの隅に二言三言書くだけなのに集中力が続かず、自分にとってはこれだけでも大仕事なのです。
年末、除夜の鐘が鳴るあたりまではそうでもないのですが、年が明けるといきなり憂鬱な気分になります。
これはうつになって初めての年明けだった今年の始めもそうでした。
年始は、うつの身には色々と憂鬱なイベントが多いからだと思います。
うちでは毎年、夫婦揃って初詣の際に厄除けのお祓いをしてもらっています。
電車で15分くらいのところにあるその神社は、近辺では厄除けで有名な所で、調べたらたまたま私と相性が良い神社だそうなので(私もこの神社が好きなので嬉しかった。神社と自分の相性ってあるらしいですよ!ちなみにダンナは伊勢神宮です)毎年お祓いをして「家内安全」のお札とお守りをもらって来ています。
──しかしこれが、待ち時間が長く、すごーく混むのです。
年明け早々、混雑の中に長時間身を置くのが嫌なので、毎年出来るだけ早朝に行っているのですが、着いた頃にはそれでももう長蛇の列でうんざりします。
そう広くない待合所で、子供のぐずり声や赤ちゃんの泣き声、人の大きい話し声の猛攻撃を受けながら、じっと座っているのはもはや拷問です。
動悸がしてくるので、私は途中ダンナを残して何度も外へ出たりしています。
今年は耳栓をして行ったので来年もそうするつもりですが、新年早々、どうして耳栓をして鳥居をくぐらねばならないのか…。情けなくて涙が出ます。
特別な信仰心がある訳でもないのにどうして毎年律儀にお祓いをしてもらっているかと言うと、数年前にダンナが厄年で、その時私も一緒にお祓いしてもらったのが始まりなのです。
前厄、本厄、後厄と3年間やりました。
ところがダンナの厄が明けても、一度行き始めてしまうと「今年はやーめた」がなかなか出来ず、ずるずるとその後も毎年通っている訳ですが…うーん。
……こんな心構えで果たしてご利益があるんでしょうか。
初詣の喧騒の凄さは私にとっては殺人的で、毎年帰宅すると倒れこんでしまいます。
それでも何故か行かなきゃならないと思ってしまう、初詣なのです。
次に憂鬱なのが、ダンナの実家と自分の実家に行くことです。
皆そうでしょうが、自分の実家はまだしも、ダンナの実家へ行くのが苦痛でなりません。
義父はもう他界していて、義母は義姉の家に同居しています。
だから実家と言っても義姉の家に行く訳なのですが、今年の始めは前日から憂鬱のあまり具合が悪くなったほどです。
うつの状態が今よりももっと酷かった私は、今年はパスさせて欲しかったのですが、ダンナはいつも通り「我関せず」な人なので、「行ける?大丈夫?」などという気遣いの言葉などあるはずもありませんでした。
そんな訳でさっさと日取りを決められ、私は薬を多めに飲み、なんとか気力を振り絞って行ったのです。
義母も義兄も義姉も気の置けない良い人で、何も憂鬱になる要素はないのですが、とにかく人に会うのが億劫で仕方がありません。彼らにはうつで会社を辞めたことを話していないので(これからも話す気はありません)、いつもと変わらない「元気な自分」を演じなければいけない訳です。
精一杯明るく振る舞い、「営業用」の自分を揺さぶり起こし、気を遣って話題をふり、甥っ子や姪っ子になけなしのお年玉(ダンナ側、私側で合計4人の甥っ子、姪っ子がいるので、毎年痛い出費です…泣)をあげ、一緒にテレビを観ながら食事をし………ああもう今考えただけで憂鬱になってきました。
考えるに、年始は喧騒の中に身を投じる機会がどうしても増え、そして自分の精神状態に関係なく平静を装って色々な人達と会わなければならず、非日常の中で自分の普段の生活ペースも乱されることになるため、心身共に酷く疲弊してしまうのだと思います。
不安定さもイライラもMAXに達しているのに、それを表に出せない数日間……。
ところで、先日ある方のブログを拝見していたら、「アンガーマネジメント」という言葉がありました。
「何ぞや?」と思い調べてみたら、「アンガーマネジメント」とは、怒りの感情を管理して、上手く付き合い、怒りのエネルギーをポジティブに使おうというプログラムなんですね。
こんなものがあるのを知らなかったので、色々調べてみました。
「怒り」の感情というのは生死に直結する感情で、動物が自分の身の危険を感じた時に生じるらしく、この「身の危険」というのは、身体的なこと、有形な事柄に限らず、自尊心や名誉などの無形の事柄まで含まれるらしい…。
うーん。それじゃ始終イライラしているって言うのは、始終「身の危険」を感じてるってことになる訳ですよね。
恐らく私の場合は、喧騒によって「平穏でいられる自分」を乱されるので、「身の危険」を感じているのかもしれない…と言ったところでしょうか。
怒りを管理するための心得、というのを読んでいたら、「イライラを書き出す」「イライラを点数化する」「呼吸を大きくゆっくりにする」…等の中に、「『大丈夫』などの呪文を用意する」って言うのがあって、びっくりしました。
──私、もうやってるじゃん(笑) ←過去記事に飛びます
私の場合は、喧騒の中で周りの雑音に脳の中が掻き乱され、不安定になるのを防ぐためのものですが、不安定になるというのはイライラした感情も含まれている訳ですし…。
来年の始めは「必要ない必要ない」と「気にしない気にしない」と「大丈夫大丈夫」と、三つ唱えることにします。
──ますます怪しい人のようだ、私……(笑)

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私はお正月がないような生活になってしまいました。実家にいた頃は親戚が来ては盛り上がっていたのですが、父や一番仲良くしていた親戚のおじ・おばも亡くなりお正月がなくなりました。田舎ぐらしになり、実家にはGWやお盆・お正月など人が動くときは動けません。昔はよかったな~と寂しい気持ちになるようになりました。かといってお正月にどうこうはなくみちるさんと同じ気持ちです。
パタリと人付き合いが心の中で面倒になりました。自分流の気の遣い方で疲れてしまいます。おせちも世の中のおせちとは違い家にある食材でとりあえず・・・って感じです。スーパーで数の子を見ました。昔は親が必ず元日に出してくれたな~と寂しくなりました。
子供の頃はあんなにお正月楽しみだったのに私は何もないのですが憂鬱です。
ご訪問&コメントありがとうございます。
ももがお役に立てて嬉しいです(笑)
メンヘラなブログなので内容はアップダウンが激しいのですが、よろしければまた、ちいとももに癒されにいらして下さいね。
いつもコメントありがとうございます♪
子供の頃はお正月って訳もわからず色んな親戚の家に連れて行かれたり、あまり親しくもない親戚の子たちが遊びに来たりして居心地の悪い思いをした記憶があります。
それでも「お正月」という非日常がとても楽しくもありました。(お年玉がもらえるからかな?(笑))
いつの頃からか本当に面倒になってしまい、うつになった今では苦痛でさえあります。
あの食卓に並べられた色とりどりのおせちが懐かしいですね。
癒されます(*´ω`*)
ももに反応してくださって嬉しいです。
動物ってほんとに癒してくれますよね。
ご訪問&コメントありがとうございました~
本当にお正月って憂鬱ですね。
のりまろさんも先生にそういうふうに言われたんですね。
私も「無理しないように」と言われました。お互い、ゆっくり休養出来るといいですね~。
ご訪問&コメントありがとうございました~!