服ぐらい買ったっていいじゃないか!(貧乏日記)
2016/03/30
3月29日(火) 晴れ
どうしても行かねばならない用事があるので街に出た。
支度も含めて出かけるのが億劫で仕方なく、用事は全て自宅の最寄り駅で済ませているのだが、小さな田舎の駅なので、事足りないことが多い。そうすると仕方なく電車に乗って街まで出る。
また例によって、毛玉だらけのニット帽に着古したパーカー、ジーンズにすっぴんマスクといういでたちである。
うつになってから身なりにとんと構わなくなった。
改札を抜けようとしたらピンポーンとやられ、残高を見ると初乗り金額も無い。
全くPASMOも落とした時のために千円単位でしかチャージしないのですぐ無くなる。
これも今の貧乏状態ではかなりきつい出費だ。
一瞬、天気も良いし3駅分だから歩こうかと思ったが(昔は歩いていた)、今の体力と気力では無理だと言う結論に落ち着き、渋々チャージ機に向かう。
久しぶりの街は春休みに入ったのか(?子供がいないので良く判らない)人が多い。
人いきれと騒音にやられて街の駅で早くもぐったりする。
さっさと用事を済ませ、ついでに銀行廻りをして、さあとっとと帰ろう…とした時に私はそれを見つけてしまったのだ。
「REDBROS.」のセールやってる!
「REDBROS.」はオリジナルTシャツのブランドで、ユニークなものが多いので好きなのだ。
前にネットで通販サイトを見つけてから気になっていた。
金銭的に今、そんな余裕はないのだが、私は取りつかれたようにふらふらと売り場に近寄ってしまった。
若い頃、私は「買い物依存症」気味のところがあった。
都内に家があるにもかかわらず、はやく自立したかった私は就職すると殆ど同時に家を出て、一人暮らしを始めた。
その頃の少ない給料で払える家賃なので、当然のごとくこじゃれた所には住めず、駅からは遠く、壁の薄い安普請の汚いアパートの一階に住んでいた。けれどもその頃は若く、まだまだ精神的にも鈍感でタフであったので、騒音なんぞ気にも留めなかった。(あの頃の精神力が欲しい…)
月の収入は家賃と光熱費、そしてほとんどが酒とタバコ代と洋服や化粧品に消えていた。
食費なんぞ一人なのでたかが知れているし、飲酒しているとツマミ程度でお腹がいっぱいになってしまう。
朝は抜き、昼は弁当を作り、夜はひたすら飲酒という、今思うととんでもない食生活をしていた。
けれども若いので、身体に特別何のダメージも感じず、それで充分だったのだ。
部屋には所狭しと買った洋服や化粧品が並べられ、食べるものがなくてもそれでも欲しいものは買っていた。
勿論、安月給なのでそう高価なものは買えない。「安物買いの銭失い」を地で行っていた。
あの頃のカードの使いっぷりはきっととんでもないと思う。
またその頃住んでいた街が「若者の住みたい街」とやらでいつも上位にいるようなところだったので、休みの日にも、平日早く帰れた日にも、靴や洋服、雑貨などで溢れ返っている街を徘徊しては色んなものを買っていた。
一度、実家に帰ろうとして交通費がなく、両親に呆れられたことがある。
両親に借金もしたことがあった。
その頃は自分を「着飾る」ことに私は夢中で、ファッション誌を読み漁り、流行を取り入れた服や靴や化粧品(安物をたくさん買うタイプ)を買いに買いまくっていた。
今思うと、あれは「ストレス」のなせる所業だったのでは…と思うのだ。
就職して慣れない仕事や人間関係にげんなりしていた私は、「買う」ことでストレスを発散させていたように思えてならない。
そのうち、「買ってきた」ことだけに満足してしまい、袋を開封することもせず部屋に放置しておき、それを買ったことを忘れてまた似たような物を買う…という失敗まで犯すようになってきた。
けれどもあの頃は、金銭的に余裕がなくなるまで、「物を買う」ことが止められなかったのである。
結婚してからは少しは落ち着いたが、相変わらず「衝動買い」の癖は治らなかった。
おかげでその頃の戦利品(洋服)が今も役に立っている。
あまりに奇抜な流行を追いすぎているものは駄目だが(でも最近リバイバルがあるので迂闊に捨てられない)、今は着るものなんかどうでもいいし欲しいとも思わないのでそれらを家で着まわしている。
そんな私だったが、久々に「洋服が欲しい」と言う気持ちがむくむくと頭をもたげてきた。
うつになってからは初めてに近いことだった。
そして見つけてしまったのだ。

……買うしかないでしょう!コレ!!
二枚買うと安くなるシステムになっていたのだが、さすがに二枚買うのはキツイ。
でも、ちいも、ももも(勝手に例えてる)どっちかなんて選べない。
私は商品を手に取り、しばらくその場でフリーズして壊れた脳をフル回転させた。
…だめだ。
どこをどういじっても、今の状況では余裕がない。
どこからもこれらを買うお金が捻出出来ない。
私には自由になるお金がない。
…ないないづくし。
そう思って、あきらめて渋々棚にシャツを戻そうとした時、不意に猛然と怒りが湧いてきた。
服ぐらい、たまには買ってもいいじゃないか!
好きだったオールフリーを飲むのも止めたし、昼ごはんはおにぎり一個。
化粧もしなくなったので、その分お金もかからない。
あんなに読んでた雑誌も本も、集中力がなくなり読めなくなったので、もう何も買わない。
どこかへ遊びにいくこともなくなったので、交際費も滅多にかからない。
確かに今、私は仕事をしてなくて、使えるお金は全てダンナが稼いだもので、私はダンナに寄生している。
家事もろくにできないダメダメ無職主婦だけど。
好きでこんな病気になった訳じゃない。
──洋服くらい、たまには買ってもいいじゃないか!
…何だか抑圧されたものが一気に反動で噴き出したような感覚だった。
──で。
買ってきてしまいました。
どうしよう……。
本当に久々に、我を忘れて衝動買いをした。
家に帰ってから現実に戻り、落ち込む私であった。
だけど、並べてにこにこ(笑)
やっぱり買ってよかったな。
買い物もたまには浮上する手助けをするんですねー!(自分を正当化しようと必死な私)
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どうしても行かねばならない用事があるので街に出た。
支度も含めて出かけるのが億劫で仕方なく、用事は全て自宅の最寄り駅で済ませているのだが、小さな田舎の駅なので、事足りないことが多い。そうすると仕方なく電車に乗って街まで出る。
また例によって、毛玉だらけのニット帽に着古したパーカー、ジーンズにすっぴんマスクといういでたちである。
うつになってから身なりにとんと構わなくなった。
改札を抜けようとしたらピンポーンとやられ、残高を見ると初乗り金額も無い。
全くPASMOも落とした時のために千円単位でしかチャージしないのですぐ無くなる。
これも今の貧乏状態ではかなりきつい出費だ。
一瞬、天気も良いし3駅分だから歩こうかと思ったが(昔は歩いていた)、今の体力と気力では無理だと言う結論に落ち着き、渋々チャージ機に向かう。
久しぶりの街は春休みに入ったのか(?子供がいないので良く判らない)人が多い。
人いきれと騒音にやられて街の駅で早くもぐったりする。
さっさと用事を済ませ、ついでに銀行廻りをして、さあとっとと帰ろう…とした時に私はそれを見つけてしまったのだ。
「REDBROS.」のセールやってる!
「REDBROS.」はオリジナルTシャツのブランドで、ユニークなものが多いので好きなのだ。
前にネットで通販サイトを見つけてから気になっていた。
金銭的に今、そんな余裕はないのだが、私は取りつかれたようにふらふらと売り場に近寄ってしまった。
若い頃、私は「買い物依存症」気味のところがあった。
都内に家があるにもかかわらず、はやく自立したかった私は就職すると殆ど同時に家を出て、一人暮らしを始めた。
その頃の少ない給料で払える家賃なので、当然のごとくこじゃれた所には住めず、駅からは遠く、壁の薄い安普請の汚いアパートの一階に住んでいた。けれどもその頃は若く、まだまだ精神的にも鈍感でタフであったので、騒音なんぞ気にも留めなかった。(あの頃の精神力が欲しい…)
月の収入は家賃と光熱費、そしてほとんどが酒とタバコ代と洋服や化粧品に消えていた。
食費なんぞ一人なのでたかが知れているし、飲酒しているとツマミ程度でお腹がいっぱいになってしまう。
朝は抜き、昼は弁当を作り、夜はひたすら飲酒という、今思うととんでもない食生活をしていた。
けれども若いので、身体に特別何のダメージも感じず、それで充分だったのだ。
部屋には所狭しと買った洋服や化粧品が並べられ、食べるものがなくてもそれでも欲しいものは買っていた。
勿論、安月給なのでそう高価なものは買えない。「安物買いの銭失い」を地で行っていた。
あの頃のカードの使いっぷりはきっととんでもないと思う。
またその頃住んでいた街が「若者の住みたい街」とやらでいつも上位にいるようなところだったので、休みの日にも、平日早く帰れた日にも、靴や洋服、雑貨などで溢れ返っている街を徘徊しては色んなものを買っていた。
一度、実家に帰ろうとして交通費がなく、両親に呆れられたことがある。
両親に借金もしたことがあった。
その頃は自分を「着飾る」ことに私は夢中で、ファッション誌を読み漁り、流行を取り入れた服や靴や化粧品(安物をたくさん買うタイプ)を買いに買いまくっていた。
今思うと、あれは「ストレス」のなせる所業だったのでは…と思うのだ。
就職して慣れない仕事や人間関係にげんなりしていた私は、「買う」ことでストレスを発散させていたように思えてならない。
そのうち、「買ってきた」ことだけに満足してしまい、袋を開封することもせず部屋に放置しておき、それを買ったことを忘れてまた似たような物を買う…という失敗まで犯すようになってきた。
けれどもあの頃は、金銭的に余裕がなくなるまで、「物を買う」ことが止められなかったのである。
結婚してからは少しは落ち着いたが、相変わらず「衝動買い」の癖は治らなかった。
おかげでその頃の戦利品(洋服)が今も役に立っている。
あまりに奇抜な流行を追いすぎているものは駄目だが(でも最近リバイバルがあるので迂闊に捨てられない)、今は着るものなんかどうでもいいし欲しいとも思わないのでそれらを家で着まわしている。
そんな私だったが、久々に「洋服が欲しい」と言う気持ちがむくむくと頭をもたげてきた。
うつになってからは初めてに近いことだった。
そして見つけてしまったのだ。

……買うしかないでしょう!コレ!!
二枚買うと安くなるシステムになっていたのだが、さすがに二枚買うのはキツイ。
でも、ちいも、ももも(勝手に例えてる)どっちかなんて選べない。
私は商品を手に取り、しばらくその場でフリーズして壊れた脳をフル回転させた。
…だめだ。
どこをどういじっても、今の状況では余裕がない。
どこからもこれらを買うお金が捻出出来ない。
私には自由になるお金がない。
…ないないづくし。
そう思って、あきらめて渋々棚にシャツを戻そうとした時、不意に猛然と怒りが湧いてきた。
服ぐらい、たまには買ってもいいじゃないか!
好きだったオールフリーを飲むのも止めたし、昼ごはんはおにぎり一個。
化粧もしなくなったので、その分お金もかからない。
あんなに読んでた雑誌も本も、集中力がなくなり読めなくなったので、もう何も買わない。
どこかへ遊びにいくこともなくなったので、交際費も滅多にかからない。
確かに今、私は仕事をしてなくて、使えるお金は全てダンナが稼いだもので、私はダンナに寄生している。
家事もろくにできないダメダメ無職主婦だけど。
好きでこんな病気になった訳じゃない。
──洋服くらい、たまには買ってもいいじゃないか!
…何だか抑圧されたものが一気に反動で噴き出したような感覚だった。
──で。
買ってきてしまいました。
どうしよう……。
本当に久々に、我を忘れて衝動買いをした。
家に帰ってから現実に戻り、落ち込む私であった。
だけど、並べてにこにこ(笑)
やっぱり買ってよかったな。
買い物もたまには浮上する手助けをするんですねー!(自分を正当化しようと必死な私)
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ネガティブの底から…
2016/03/28
何とか生きています。
今回のネガティブの波は大きかったです。
がっしりと腰のあたりまでネガティブ思考に掴まれて、海溝のような深さまで沈められたので、なかなか這い上がれませんでした。
色んな事柄が一緒くたにネガティブの集合体となって私を打ちのめし、海面から顔を出すのも難儀でした。
やっと文章を書けるまでに這い上がって来ています。
私にとって文章を書くことはストレス解消でもあり、唯一「億劫」さを感じない作業だったのですが、今回はそれさえも出来ませんでした。
ブログ廻りはおろか、最初の頃はPCを立ち上げることも億劫な状態でしたので、コメントを頂いてたのに本当にすみませんでした。
今回、何故ここまで落ち込んでしまったのかは自分でも良く判らないのですが、やはり生活が苦しいのに自分が働けない…という焦りと不安が大元の原因だと思います。
「考えるな」「前向きに」と言われても、そもそもそれが出来ないのがこの病気な訳であって、物事を悪い方にばかり考えてしまい、そしてぐるぐると同じところを回っているネガティブループに陥ってしまいました。自分でもこの状態には対処できないのです。
「考えても始まらない。なるようにしかならない。前向きに考えよう!」などと、一時は落ち込んでもすぐに思考を切り替えることが出来るのであれば、元からこんな病に罹患しなかった訳です。
とにかく「思考停止」するために、デパスを毎日ひたすらODし、寝逃げを決め込んでいましたが、そうすると物凄く気色の悪い夢ばかり見て、精神的にすっかり参ってしまいました。
毎日毎日、ベランダのお気に入りの場所にぼーっといつまでも座り、泣いたり、身を乗り出して遥か下にある花壇を見つめてみたり、状態はすっかり発病当時に戻ってしまいました。
そこで思ったのです。
「それならばいっそ、考えて考えて考えて、落ちるところまで落ちてみよう」
誰かが助けてくれる訳でもなく、自分の力でしか底から這い上がって来ることは出来ません。
まるで孤独な戦いですが、あえて身を投じてみました。
本当に真っ暗な毎日でしたが、なんとか徐々に這い上がることが出来ました。
発病してもう2年なので、身体の方も脳の方も少しは学習しているんだと身をもって知りました。
人間、毎日暗い底の方で蹲っていると、いつしかそうした状況に飽きてきます。
そうすると、頭上を覆っていた厚い黒雲にするすると隙間ができ始め、そこからここぞとばかりに自分を浮上させようとする力が入り込んでくるんだなあ…と感じました。
誰の言葉で浮上するのでもなく、自分自身の防衛本能なのか自己治癒力か何なのか判りませんが、プラスの思考が働くように、それを受け入れやすくするようになって来るのです。
そうして少しずつ色んなことが出来るようになってきました。
近所のコンビニまでの外出、テレビを観る、お風呂に入って髪を洗う、甘いもの以外にきちんと物を食べる(何故か無性に甘いものを欲してそればかり食べていた…)、PCを立ち上げる…。
けれども立ち直り始めたところで何も状況は変わっていません。
「考えるな」とよく言われるけれど、考えるのを止めてデパスをODして寝逃げしていても何も状況は変わりません。そしてそんな自分にまた落ち込む…という悪循環。
そこで、ちょっと動けるようになったのであえて就活をしてみるという荒療治に出てみました(笑)
ハロワに行ったり、数件問い合わせの電話を震える声で掛けてみて撃沈したりと、少しでも今の苦しい経済状況を脱しようとする方向へと動いてみました。
その方が、何も考えずに布団に包まっているよりも、少しですが自分が落ち着けるような気がしたのです。
それで勢いがつき、在宅の仕事をいくつか探して、ちょっと私には難度が高めのものに挑戦してみたり(収入は微々たるものですが)しているうちに、少しずつ少しずつ浮上してきました。
そんな時、以前ある方の記事を読んで、目からウロコだったのをふと思い出しました。
「うつ病は急性期の頃は、何もせず何も考えずに休養することが大事だが、少し動けるようになったら、少しずつ『頑張る』ことが必要だ。もともとうつ病になるような人は真面目で頑張りすぎるようなところがあるが、それはその人の持って生まれた資質であって、生涯変えることは出来ない。そんな人間にいつまでも『何もするな、頑張るな』と言うのは、鳥に飛ぶな、魚に泳ぐなと言っているようなものだ」……のような内容なのですが。
何もかも全てのことを頑張って頑張って頑張りすぎて、オーバーヒートしてうつ病になった私ですが、確かにあの、何かに取りつかれたように無心で頑張っていた頃の方が「自分らしい」気が今ではしているのです。
もうあんなに色んなことを考え考え、ただやみくもに突き進むことは避けようとは思ってはいますが(できるかな?笑)、やはり考えることは必要だと思うのです。
ただし、動くことを止めてしまっては私は駄目なんだ…ということに気付きました。
考えて考えて悩み、色んなことをやってみて焦ったり失敗して落ち込んだりするかもしれないけれども、やはりネガティブだろうとなんだろうと、悩んで足掻くことは今の私には必要だ…と思ったのです。
今は脱しつつあるけれども、またネガティブの波は襲ってくると思います。
そうしたら、また底まで落ちてみようかな…などと考えている私です。
半分やけくそのようになって脱した今回の波ですが、人生「やけくそ」も多少必要なのかもしれません。

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今回のネガティブの波は大きかったです。
がっしりと腰のあたりまでネガティブ思考に掴まれて、海溝のような深さまで沈められたので、なかなか這い上がれませんでした。
色んな事柄が一緒くたにネガティブの集合体となって私を打ちのめし、海面から顔を出すのも難儀でした。
やっと文章を書けるまでに這い上がって来ています。
私にとって文章を書くことはストレス解消でもあり、唯一「億劫」さを感じない作業だったのですが、今回はそれさえも出来ませんでした。
ブログ廻りはおろか、最初の頃はPCを立ち上げることも億劫な状態でしたので、コメントを頂いてたのに本当にすみませんでした。
今回、何故ここまで落ち込んでしまったのかは自分でも良く判らないのですが、やはり生活が苦しいのに自分が働けない…という焦りと不安が大元の原因だと思います。
「考えるな」「前向きに」と言われても、そもそもそれが出来ないのがこの病気な訳であって、物事を悪い方にばかり考えてしまい、そしてぐるぐると同じところを回っているネガティブループに陥ってしまいました。自分でもこの状態には対処できないのです。
「考えても始まらない。なるようにしかならない。前向きに考えよう!」などと、一時は落ち込んでもすぐに思考を切り替えることが出来るのであれば、元からこんな病に罹患しなかった訳です。
とにかく「思考停止」するために、デパスを毎日ひたすらODし、寝逃げを決め込んでいましたが、そうすると物凄く気色の悪い夢ばかり見て、精神的にすっかり参ってしまいました。
毎日毎日、ベランダのお気に入りの場所にぼーっといつまでも座り、泣いたり、身を乗り出して遥か下にある花壇を見つめてみたり、状態はすっかり発病当時に戻ってしまいました。
そこで思ったのです。
「それならばいっそ、考えて考えて考えて、落ちるところまで落ちてみよう」
誰かが助けてくれる訳でもなく、自分の力でしか底から這い上がって来ることは出来ません。
まるで孤独な戦いですが、あえて身を投じてみました。
本当に真っ暗な毎日でしたが、なんとか徐々に這い上がることが出来ました。
発病してもう2年なので、身体の方も脳の方も少しは学習しているんだと身をもって知りました。
人間、毎日暗い底の方で蹲っていると、いつしかそうした状況に飽きてきます。
そうすると、頭上を覆っていた厚い黒雲にするすると隙間ができ始め、そこからここぞとばかりに自分を浮上させようとする力が入り込んでくるんだなあ…と感じました。
誰の言葉で浮上するのでもなく、自分自身の防衛本能なのか自己治癒力か何なのか判りませんが、プラスの思考が働くように、それを受け入れやすくするようになって来るのです。
そうして少しずつ色んなことが出来るようになってきました。
近所のコンビニまでの外出、テレビを観る、お風呂に入って髪を洗う、甘いもの以外にきちんと物を食べる(何故か無性に甘いものを欲してそればかり食べていた…)、PCを立ち上げる…。
けれども立ち直り始めたところで何も状況は変わっていません。
「考えるな」とよく言われるけれど、考えるのを止めてデパスをODして寝逃げしていても何も状況は変わりません。そしてそんな自分にまた落ち込む…という悪循環。
そこで、ちょっと動けるようになったのであえて就活をしてみるという荒療治に出てみました(笑)
ハロワに行ったり、数件問い合わせの電話を震える声で掛けてみて撃沈したりと、少しでも今の苦しい経済状況を脱しようとする方向へと動いてみました。
その方が、何も考えずに布団に包まっているよりも、少しですが自分が落ち着けるような気がしたのです。
それで勢いがつき、在宅の仕事をいくつか探して、ちょっと私には難度が高めのものに挑戦してみたり(収入は微々たるものですが)しているうちに、少しずつ少しずつ浮上してきました。
そんな時、以前ある方の記事を読んで、目からウロコだったのをふと思い出しました。
「うつ病は急性期の頃は、何もせず何も考えずに休養することが大事だが、少し動けるようになったら、少しずつ『頑張る』ことが必要だ。もともとうつ病になるような人は真面目で頑張りすぎるようなところがあるが、それはその人の持って生まれた資質であって、生涯変えることは出来ない。そんな人間にいつまでも『何もするな、頑張るな』と言うのは、鳥に飛ぶな、魚に泳ぐなと言っているようなものだ」……のような内容なのですが。
何もかも全てのことを頑張って頑張って頑張りすぎて、オーバーヒートしてうつ病になった私ですが、確かにあの、何かに取りつかれたように無心で頑張っていた頃の方が「自分らしい」気が今ではしているのです。
もうあんなに色んなことを考え考え、ただやみくもに突き進むことは避けようとは思ってはいますが(できるかな?笑)、やはり考えることは必要だと思うのです。
ただし、動くことを止めてしまっては私は駄目なんだ…ということに気付きました。
考えて考えて悩み、色んなことをやってみて焦ったり失敗して落ち込んだりするかもしれないけれども、やはりネガティブだろうとなんだろうと、悩んで足掻くことは今の私には必要だ…と思ったのです。
今は脱しつつあるけれども、またネガティブの波は襲ってくると思います。
そうしたら、また底まで落ちてみようかな…などと考えている私です。
半分やけくそのようになって脱した今回の波ですが、人生「やけくそ」も多少必要なのかもしれません。

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「希死念慮」と「自殺願望」の違いって?
2016/03/20
依然としてネガティブの海溝の底におります。
何をする気にもならず、今のことより将来の自分の事ばかり考えてしまい、どうしてもそれはネガティブな思考へと真っ直ぐに向かいます。
こういう時は、メールもLINEも返信するのがしんどいので、放置状態になってしまいます。
返信も上手く書けず、ちっとも「大丈夫」じゃない癖に、相手に心配させまいと「大丈夫な自分」を装うことが億劫でたまらないのです。
そもそも、「大丈夫」ってどういう状態を言うんだろうか…。そんなことまで考えてしまいます。
とにかく、他人とコンタクトが取りたくありません。
申し訳ありませんが、少し放置しておいて下さい…というのが正直な気持ちです。
休日でダンナが家に居るのも、申し訳ないのですが今の私には苦痛で仕方がありません。
相手に心配をかけたくないと言う気持ちがあるので、億劫でも普通に会話し接していますが、しんどくてしんどくてたまりません。
ただただ、ひとりになりたいのです。
いくら探っても出口はなく、暗闇の中に蹲っているような感じです。
こんな時に「死んで自分をリセットしなければ」という気持ちがふつふつと湧いてくるのです。
これを「希死念慮」というのでしょうか。
私は「希死念慮」と「自殺願望」の決定的な違いが実はよく判っていません。
ので、ちょっと調べてみたのですが。
「自殺願望」……生きているのが嫌だから死にたいと思ったり、死ねるものなら死にたいと抱く思い。
「希死念慮」……死ななくてはいけないと思い込んでしまったり、死にたいという言葉が頭に浮かんで離れないなど自殺することを義務的に思っているもの。
そうすると、「死ななくてはいけない」「自分は存在していてはいけない」と常々思っている自分はやはり、「希死念慮」を抱いているということになるのでしょうか。
とにかく、何か思考の矛先を変えなければ…と思って焦って色々やってみた(やってみようとした)のですが、どれも上手くいきません。自分の行く末が不安だ…というところにすぐ戻ってきてしまいます。
「焦ってみても物事はなるようにしかならない」
「ポジティブに見方を変えれば世の中は違って見える」
…散々、周りに言われ、そして様々な曲やドラマなどでも使われている言葉ですが、
「そんなの判ってる!」と叫びたいです。
そう。そんなこと誰に言われるまでもなくちゃんと判っているし、身をもって知っているのです。
けれどもこういう状態の時は、言葉は私を素通りし、右から左へ抜けて行ってしまいます。
デパスをODして寝逃げするしかないのですが、そうすると今度は悪夢を見ます。
はっと覚醒し、何とも寝覚めの悪い気分に陥り、そして徐々に思考が戻って来ると何ひとつ変わっていない現状に絶望する…そんなことの繰り返しです。
うーん。まずいな。
なんとか浮上しなければ。
落ちるところまで落ちれば、そのうち浮上するでしょう。
そう思いたい。
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何をする気にもならず、今のことより将来の自分の事ばかり考えてしまい、どうしてもそれはネガティブな思考へと真っ直ぐに向かいます。
こういう時は、メールもLINEも返信するのがしんどいので、放置状態になってしまいます。
返信も上手く書けず、ちっとも「大丈夫」じゃない癖に、相手に心配させまいと「大丈夫な自分」を装うことが億劫でたまらないのです。
そもそも、「大丈夫」ってどういう状態を言うんだろうか…。そんなことまで考えてしまいます。
とにかく、他人とコンタクトが取りたくありません。
申し訳ありませんが、少し放置しておいて下さい…というのが正直な気持ちです。
休日でダンナが家に居るのも、申し訳ないのですが今の私には苦痛で仕方がありません。
相手に心配をかけたくないと言う気持ちがあるので、億劫でも普通に会話し接していますが、しんどくてしんどくてたまりません。
ただただ、ひとりになりたいのです。
いくら探っても出口はなく、暗闇の中に蹲っているような感じです。
こんな時に「死んで自分をリセットしなければ」という気持ちがふつふつと湧いてくるのです。
これを「希死念慮」というのでしょうか。
私は「希死念慮」と「自殺願望」の決定的な違いが実はよく判っていません。
ので、ちょっと調べてみたのですが。
「自殺願望」……生きているのが嫌だから死にたいと思ったり、死ねるものなら死にたいと抱く思い。
「希死念慮」……死ななくてはいけないと思い込んでしまったり、死にたいという言葉が頭に浮かんで離れないなど自殺することを義務的に思っているもの。
そうすると、「死ななくてはいけない」「自分は存在していてはいけない」と常々思っている自分はやはり、「希死念慮」を抱いているということになるのでしょうか。
とにかく、何か思考の矛先を変えなければ…と思って焦って色々やってみた(やってみようとした)のですが、どれも上手くいきません。自分の行く末が不安だ…というところにすぐ戻ってきてしまいます。
「焦ってみても物事はなるようにしかならない」
「ポジティブに見方を変えれば世の中は違って見える」
…散々、周りに言われ、そして様々な曲やドラマなどでも使われている言葉ですが、
「そんなの判ってる!」と叫びたいです。
そう。そんなこと誰に言われるまでもなくちゃんと判っているし、身をもって知っているのです。
けれどもこういう状態の時は、言葉は私を素通りし、右から左へ抜けて行ってしまいます。
デパスをODして寝逃げするしかないのですが、そうすると今度は悪夢を見ます。
はっと覚醒し、何とも寝覚めの悪い気分に陥り、そして徐々に思考が戻って来ると何ひとつ変わっていない現状に絶望する…そんなことの繰り返しです。
うーん。まずいな。
なんとか浮上しなければ。
落ちるところまで落ちれば、そのうち浮上するでしょう。
そう思いたい。
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ネガティブの波
2016/03/17
久々にちょっとしんどい波が来ています。
何がきっかけかは判っています。
ハロワに行ったり、求人雑誌を見たり、ネットで求人情報を調べたり。
就活をぼちぼち再開したからなのです。
半年ほど前、少し病状が回復した時に就活を始めてみたのですが、これがもう玉砕状態でした。
やはり自分の年齢とスキルでは、希望している元のような職種に就くのはもはや難しいのだと実感しました。
そしてその後、また病状が悪化したのでしばらく就活を止めていたのですが、再開してみて状況は何も変わっていないこと(当たり前)に改めて気づき、悄然としました。
まだまだ病状は不安定で、きちんと働ける自信はありません。
「社会」に出て、他人と仕事をしていく事に「恐怖」すら感じています。
正直なところ、本当に仕事がしたいのか…と問われると、即座に「はい」と言えない自分がいます。
ですが、今のような生活を続けていくことを考えると、その先には絶望しかありません。
私のような状態でも、頑張って働いている人は沢山いるのです。
現実は厳しく、私が収入を得ないと生活していけません。
いつまでも療養生活をしていられるほど、うちには余裕がないのです。
「今は休むことが私の仕事」と言われ、もう2年近く私は休みました。
けれどもまだまだ寛解には遠い手応えを日々感じています。
きっともう少し「自分を休ませる期間」が必要なのかもしれません。
少しずつ病状は良くはなっていますが、「もう大丈夫」という実感は全くありません。
でも。
もしかしたら、もう「自分を休ませる」ことが必要な期間はとっくに終わっているのじゃないか。
そもそも、何をもって「寛解」したと言うのか。
うつ病は「~の数値が上がったからもう大丈夫です」と言うように、その病状が数値で表せる類の病ではないので、「寛解」を判断するのは一体誰なのか?主治医なのか、自分なのか?
もしかしたら。
日々、自堕落な生活を送っている、今のこれは「自分を休ませる」ために行っているのではなく、ただの惰性で、怠惰のなせる業なんじゃないのか。
──だとしたら、早く復帰しないと本当に社会に戻れなくなる。
そんな結論に達した私は、焦って就活を再開させたのですが、どうも心がついて来ません。
「焦るとろくなことが無い」というのはダンナの持論ですが、そんなことは誰に言われるまでもなく、自分でも良く判っています。
けれども自分の今置かれている状況は、「焦るな」と言われても無理なぐらい逼迫しています。
その「焦り」がネガティブの波を呼び、心身共に、またあの気怠さを呼んで来るのです。
今朝は本当に起きるのが辛く、やっとの思いでダンナのお弁当を作り、ちいももの世話を済ませ、そこで糸が切れたように自室にこもってまた爆睡してしまいました。
昼近くまで深く眠り、怠い身体をベッドから引き剥がすようにして起こし、身支度を軽く整えて(それも面倒でたまらない。ジーンズに履き替えることさえも苦痛で仕方がないのです)、嫌々夕食の買い物に出かけました。
夕食の買い物と言っても出来合いの安いお弁当を買うだけ。
料理も出来ない無職主婦は、キッチンに立って小さなお弁当用の卵焼きを焼くことさえ、今は出来ないのです。
外で懸命に働き帰宅するダンナに、手料理のひとつも食べさせられない。
一日家に居るのに、毎日毎日一体何をしているのか。
これはただの「怠惰」なのではないか…と考えると、どこまでが病気のせいなのか判らなくなります。
そしてそんなことを考え始めると自分に嫌悪感を抱き、焦燥感、劣等感、希死念慮…様々なネガティブな思考が待ってましたとばかりに私を包みこんで離さないのです。
私なんかただの怠けた人間なんじゃないのか。
どうして皆が普通に出来ることが私には出来ないのか。
生きてる価値のない、ダンナにパラサイトしてる寄生虫。
ダンナも本当は迷惑なんじゃないのか。
毎日ウンザリしてるんじゃないのか。
思考の螺旋は止まらず、デパスをODしながら例のごとくじっとしていられないため、部屋の中をただうろうろと歩き回ります。
友人はそんな私をいつも宥めてくれます。
「ポジティブ」に戻ってくるように、言葉を掛けてくれます。
有難いと思うのに、なかなか上がっていく事が出来ません。
「ポジティブ」にも限度があります。
「ポジティブ」に徹することが出来るのは、救いの道がまだ残されている時だけ。
今のように何もない状態では、暗い道の先に「ポジティブ」の光は見えません。
物事を「ポジティブ」に捉えることが出来れば、うつ病などにならずにすんだと思います。
そもそも私の思考の癖は、デフォルトが「ネガティブ」なので、それをこじらせるともう這い上がって来られないところまですぐに沈んでしまいます。
そこは誰の言葉も聞こえません。
そしてそんな自分を掬い上げるのも結局は誰でもなく、自分しかいないのです。
判っているのに、今はただ沈み込んでいくばかりです。
……何だか今日は、取り留めのない文章になってしまいました(いつもですが)
けれども、これが今の私の赤裸々な心情です。
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何がきっかけかは判っています。
ハロワに行ったり、求人雑誌を見たり、ネットで求人情報を調べたり。
就活をぼちぼち再開したからなのです。
半年ほど前、少し病状が回復した時に就活を始めてみたのですが、これがもう玉砕状態でした。
やはり自分の年齢とスキルでは、希望している元のような職種に就くのはもはや難しいのだと実感しました。
そしてその後、また病状が悪化したのでしばらく就活を止めていたのですが、再開してみて状況は何も変わっていないこと(当たり前)に改めて気づき、悄然としました。
まだまだ病状は不安定で、きちんと働ける自信はありません。
「社会」に出て、他人と仕事をしていく事に「恐怖」すら感じています。
正直なところ、本当に仕事がしたいのか…と問われると、即座に「はい」と言えない自分がいます。
ですが、今のような生活を続けていくことを考えると、その先には絶望しかありません。
私のような状態でも、頑張って働いている人は沢山いるのです。
現実は厳しく、私が収入を得ないと生活していけません。
いつまでも療養生活をしていられるほど、うちには余裕がないのです。
「今は休むことが私の仕事」と言われ、もう2年近く私は休みました。
けれどもまだまだ寛解には遠い手応えを日々感じています。
きっともう少し「自分を休ませる期間」が必要なのかもしれません。
少しずつ病状は良くはなっていますが、「もう大丈夫」という実感は全くありません。
でも。
もしかしたら、もう「自分を休ませる」ことが必要な期間はとっくに終わっているのじゃないか。
そもそも、何をもって「寛解」したと言うのか。
うつ病は「~の数値が上がったからもう大丈夫です」と言うように、その病状が数値で表せる類の病ではないので、「寛解」を判断するのは一体誰なのか?主治医なのか、自分なのか?
もしかしたら。
日々、自堕落な生活を送っている、今のこれは「自分を休ませる」ために行っているのではなく、ただの惰性で、怠惰のなせる業なんじゃないのか。
──だとしたら、早く復帰しないと本当に社会に戻れなくなる。
そんな結論に達した私は、焦って就活を再開させたのですが、どうも心がついて来ません。
「焦るとろくなことが無い」というのはダンナの持論ですが、そんなことは誰に言われるまでもなく、自分でも良く判っています。
けれども自分の今置かれている状況は、「焦るな」と言われても無理なぐらい逼迫しています。
その「焦り」がネガティブの波を呼び、心身共に、またあの気怠さを呼んで来るのです。
今朝は本当に起きるのが辛く、やっとの思いでダンナのお弁当を作り、ちいももの世話を済ませ、そこで糸が切れたように自室にこもってまた爆睡してしまいました。
昼近くまで深く眠り、怠い身体をベッドから引き剥がすようにして起こし、身支度を軽く整えて(それも面倒でたまらない。ジーンズに履き替えることさえも苦痛で仕方がないのです)、嫌々夕食の買い物に出かけました。
夕食の買い物と言っても出来合いの安いお弁当を買うだけ。
料理も出来ない無職主婦は、キッチンに立って小さなお弁当用の卵焼きを焼くことさえ、今は出来ないのです。
外で懸命に働き帰宅するダンナに、手料理のひとつも食べさせられない。
一日家に居るのに、毎日毎日一体何をしているのか。
これはただの「怠惰」なのではないか…と考えると、どこまでが病気のせいなのか判らなくなります。
そしてそんなことを考え始めると自分に嫌悪感を抱き、焦燥感、劣等感、希死念慮…様々なネガティブな思考が待ってましたとばかりに私を包みこんで離さないのです。
私なんかただの怠けた人間なんじゃないのか。
どうして皆が普通に出来ることが私には出来ないのか。
生きてる価値のない、ダンナにパラサイトしてる寄生虫。
ダンナも本当は迷惑なんじゃないのか。
毎日ウンザリしてるんじゃないのか。
思考の螺旋は止まらず、デパスをODしながら例のごとくじっとしていられないため、部屋の中をただうろうろと歩き回ります。
友人はそんな私をいつも宥めてくれます。
「ポジティブ」に戻ってくるように、言葉を掛けてくれます。
有難いと思うのに、なかなか上がっていく事が出来ません。
「ポジティブ」にも限度があります。
「ポジティブ」に徹することが出来るのは、救いの道がまだ残されている時だけ。
今のように何もない状態では、暗い道の先に「ポジティブ」の光は見えません。
物事を「ポジティブ」に捉えることが出来れば、うつ病などにならずにすんだと思います。
そもそも私の思考の癖は、デフォルトが「ネガティブ」なので、それをこじらせるともう這い上がって来られないところまですぐに沈んでしまいます。
そこは誰の言葉も聞こえません。
そしてそんな自分を掬い上げるのも結局は誰でもなく、自分しかいないのです。
判っているのに、今はただ沈み込んでいくばかりです。
……何だか今日は、取り留めのない文章になってしまいました(いつもですが)
けれども、これが今の私の赤裸々な心情です。
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だらだら貧乏日記
2016/03/15
3月14日(月) 雨
ダンナから「帰宅時間予想連絡」のLINEが来て(毎日律儀に寄越して来る)、その最後の方に「もうお金無くなっちゃった」とあった。「ゴメンナサイ」のスタンプが泣かせる。
ダンナの小遣いは「これじゃ1ヶ月無理だろう」ぐらいにしか渡さない渡せないので、そりゃそうだろうと納得する。そして同時にネガティブの暗い海に突き落とされた。
どんな暗い海よりも、生活に対する不安が原因で突き落とされる海は、深く冷たい。
海溝の底に居るんじゃないかと思うくらいで、一度落ちるとなかなか浮上できない。
いつもそれはすぐそばにある不安の種で、通常それに「見ないふり」をして、崖っぷちを歩いている。
しかしそれからは逃れることが出来ずに、時々現実を突き付けられて海溝の底に沈むのだ。
うちは生活が苦しい。
私が働けないからだ。
残業代がつかなくなってズドーンと落ちたダンナの給料と、共稼ぎ時代に貯めた貯金とボーナスを毎月持ち出してやっと暮らしている。
しかし貯金だって無尽蔵ではない。このままではいつかは無くなる。
もう少し調子が上がってきたら、未だ不安な状態だが本格的に就活を再開しないと。
──もう暮らしていけない。
PCに向き合い、Excelの家計簿(めんどくさいので最近はちゃんとつけてない)と睨めっこして、今後のことを考えた。
まず、マンションのローン、生命保険代は削れない。
あと、スマホ代や医療費も無理だ。
光熱費もさらに引き締めるが、限度というものがある。
食費も雑費も、生活にどうしても必要なものしかもはや買うことが出来ない。
となれば、削るのは嗜好品である。
あと、いつも購入しているが、実は要らないんじゃないかと思うものを書き出してみた。
決まって購入しているもの
ダンナ:アクエリアス、飲むヨーグルトとバナナ(このふたつを毎日採らないと便秘になるらしい…)甘いパン(疲れをとるらしい)、チオビタ(激務なので身体を考えて)
私:オールフリー、ヨーグルト(抗うつ剤で便秘気味のため)、コカコーラゼロとブラックコーヒー(もはや中毒)
──決まった。
私の唯一の楽しみである、ノンアルコールのオールフリーを買うのを止めることにした。
これが一番、金を食っている。
もともと、断酒してからなんとなく酒の代わりに毎日飲み続けているだけなのだ。
毎日晩酌していた時の癖が残っているだけで、酔うわけじゃなし、飲み物ならきっと何でもいいのかもしれない。
…だけど、美味しいから好きなんだよな。
けれどもこれを買うのを止めればダンナの小遣いが増やせる。
外で働いているダンナに不自由な思いはさせられない。
私なんかただの役に立たない「無職主婦」なんだからどうでもいいのだ。
……ううう(泣)
あと、何となく毎日飲んでいるサプリメントの数々も全て止めることにした。
効果があるのかないのか、いまいち実感できないからだ。
止めてみて何か支障があったらまたその時考えよう。
それから…。
うちはふたりともタバコを喫うのだが、これだけは止められない。
ダンナは何度か「止める」と清々しい顔で宣言していたが、一向に止める気配が無い。
私は、これまで止めたらストレスが増加しそうなので今のところは無理だ。
預金通帳を片っ端から開いて残高を確認する。
そして一層深い海溝に落ちて行くのであった。
3月15日(火) 晴れ
天気が良くなるというので昨日のうちに洗濯をしておいた。
やる気があるときにやっておいて良かった。
今朝は起きたら酷いだるだる状態で、何もする気が起きない。
昨日、ネガティブの海に飲み込まれたままの状態だからだと思う。
今日は久々にリハビリのつもりでハロワに行こうと思っていたのだが、この状態ではどうだろう。
取りあえず朝のデパスを飲んだら急激に眠気が襲い、1時間ほどのつもりでベッドに横になる。
目が覚めたら1時間のはずが昼近くになっていて、3時間も眠ってしまったことになる。
嫌な夢を見た。
夢の中で私は子供を抱いている。その子供の眼が、ももの眼なのだ。
あのくりくりとしたまつ毛の長い愛らしい瞳。
だが、人間の子供につけられては、不気味なことこの上ない。
最悪な寝覚めだった。
どうしてこの午前中の睡眠は悪夢ばかり見るのだろう。
もはや、ハロワに行く気力など微塵もなくなっていた。
深い自己嫌悪に襲われて、しばらくベッドの上でスマホを眺めてうだうだ過ごす。
それでも昨日、今日は絶対やると決めたウォーキングだけは完遂しようと、ぐだぐだと支度を始めた。
支度と言っても、来ているパーカーの上に薄いダウンを羽織り、ぐしゃぐしゃの髪をニット帽で隠し、すっぴんにマスクという有様だ。
夕食の買い物にもどうせ行かねばならないので、嫌々ドアを開いて外に出た。
外は風が冷たいがあたたかなやわらかい日差し。
こんな小汚い格好で歩くのも憚られるくらいの明るさだ。
トボトボと歩いているのに気付いて、背筋を伸ばし、きちんとウォーキング体勢をとる。
ただだらだらと歩くだけでは効果が無いのだ。
少し遠めのスーパーまで歩いたのだが、久々なので苦しく、膝が痛くなった。
毎日毎日部屋にこもって自堕落な生活を送ってばかりいるので、身体も腐り始めている様な気がして、またも自己嫌悪に陥る。
とにかく生活に余裕がないので、余計なものを買わないように財布の中にはギリギリのお金しか入れないことにした。
何かあったら何かあったで、自分が困るだけだ。仕方がない。
この頃、何もかも思考が投げやり傾向になってきて良くないと思うが…これも仕方がない。
切らしている必要な日用品とダンナの夕食を買ったら、私の夕食を買うお金が無い。
仕方がないので小さなおいなりさんの3個入りを買う。180円也。今日はこれが私の夕食だ。
これでも、いつものおにぎりひとつよりはだいぶ贅沢である。
けれども別の財布を取りだし、タバコだけはしっかり買う私…。
本当にお金がないと気持ちが塞ぐ。
痛くなった膝を抱えて帰途についた。
──明日こそはハロワに行かねば!
……不安。
愛兎のさかりを見て、春の訪れを知る

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ダンナから「帰宅時間予想連絡」のLINEが来て(毎日律儀に寄越して来る)、その最後の方に「もうお金無くなっちゃった」とあった。「ゴメンナサイ」のスタンプが泣かせる。
ダンナの小遣いは「これじゃ1ヶ月無理だろう」ぐらいにしか
どんな暗い海よりも、生活に対する不安が原因で突き落とされる海は、深く冷たい。
海溝の底に居るんじゃないかと思うくらいで、一度落ちるとなかなか浮上できない。
いつもそれはすぐそばにある不安の種で、通常それに「見ないふり」をして、崖っぷちを歩いている。
しかしそれからは逃れることが出来ずに、時々現実を突き付けられて海溝の底に沈むのだ。
うちは生活が苦しい。
私が働けないからだ。
残業代がつかなくなってズドーンと落ちたダンナの給料と、共稼ぎ時代に貯めた貯金とボーナスを毎月持ち出してやっと暮らしている。
しかし貯金だって無尽蔵ではない。このままではいつかは無くなる。
もう少し調子が上がってきたら、未だ不安な状態だが本格的に就活を再開しないと。
──もう暮らしていけない。
PCに向き合い、Excelの家計簿(めんどくさいので最近はちゃんとつけてない)と睨めっこして、今後のことを考えた。
まず、マンションのローン、生命保険代は削れない。
あと、スマホ代や医療費も無理だ。
光熱費もさらに引き締めるが、限度というものがある。
食費も雑費も、生活にどうしても必要なものしかもはや買うことが出来ない。
となれば、削るのは嗜好品である。
あと、いつも購入しているが、実は要らないんじゃないかと思うものを書き出してみた。
決まって購入しているもの
ダンナ:アクエリアス、飲むヨーグルトとバナナ(このふたつを毎日採らないと便秘になるらしい…)甘いパン(疲れをとるらしい)、チオビタ(激務なので身体を考えて)
私:オールフリー、ヨーグルト(抗うつ剤で便秘気味のため)、コカコーラゼロとブラックコーヒー(もはや中毒)
──決まった。
私の唯一の楽しみである、ノンアルコールのオールフリーを買うのを止めることにした。
これが一番、金を食っている。
もともと、断酒してからなんとなく酒の代わりに毎日飲み続けているだけなのだ。
毎日晩酌していた時の癖が残っているだけで、酔うわけじゃなし、飲み物ならきっと何でもいいのかもしれない。
…だけど、美味しいから好きなんだよな。
けれどもこれを買うのを止めればダンナの小遣いが増やせる。
外で働いているダンナに不自由な思いはさせられない。
私なんかただの役に立たない「無職主婦」なんだからどうでもいいのだ。
……ううう(泣)
あと、何となく毎日飲んでいるサプリメントの数々も全て止めることにした。
効果があるのかないのか、いまいち実感できないからだ。
止めてみて何か支障があったらまたその時考えよう。
それから…。
うちはふたりともタバコを喫うのだが、これだけは止められない。
ダンナは何度か「止める」と清々しい顔で宣言していたが、一向に止める気配が無い。
私は、これまで止めたらストレスが増加しそうなので今のところは無理だ。
預金通帳を片っ端から開いて残高を確認する。
そして一層深い海溝に落ちて行くのであった。
3月15日(火) 晴れ
天気が良くなるというので昨日のうちに洗濯をしておいた。
やる気があるときにやっておいて良かった。
今朝は起きたら酷いだるだる状態で、何もする気が起きない。
昨日、ネガティブの海に飲み込まれたままの状態だからだと思う。
今日は久々にリハビリのつもりでハロワに行こうと思っていたのだが、この状態ではどうだろう。
取りあえず朝のデパスを飲んだら急激に眠気が襲い、1時間ほどのつもりでベッドに横になる。
目が覚めたら1時間のはずが昼近くになっていて、3時間も眠ってしまったことになる。
嫌な夢を見た。
夢の中で私は子供を抱いている。その子供の眼が、ももの眼なのだ。
あのくりくりとしたまつ毛の長い愛らしい瞳。
だが、人間の子供につけられては、不気味なことこの上ない。
最悪な寝覚めだった。
どうしてこの午前中の睡眠は悪夢ばかり見るのだろう。
もはや、ハロワに行く気力など微塵もなくなっていた。
深い自己嫌悪に襲われて、しばらくベッドの上でスマホを眺めてうだうだ過ごす。
それでも昨日、今日は絶対やると決めたウォーキングだけは完遂しようと、ぐだぐだと支度を始めた。
支度と言っても、来ているパーカーの上に薄いダウンを羽織り、ぐしゃぐしゃの髪をニット帽で隠し、すっぴんにマスクという有様だ。
夕食の買い物にもどうせ行かねばならないので、嫌々ドアを開いて外に出た。
外は風が冷たいがあたたかなやわらかい日差し。
こんな小汚い格好で歩くのも憚られるくらいの明るさだ。
トボトボと歩いているのに気付いて、背筋を伸ばし、きちんとウォーキング体勢をとる。
ただだらだらと歩くだけでは効果が無いのだ。
少し遠めのスーパーまで歩いたのだが、久々なので苦しく、膝が痛くなった。
毎日毎日部屋にこもって自堕落な生活を送ってばかりいるので、身体も腐り始めている様な気がして、またも自己嫌悪に陥る。
とにかく生活に余裕がないので、余計なものを買わないように財布の中にはギリギリのお金しか入れないことにした。
何かあったら何かあったで、自分が困るだけだ。仕方がない。
この頃、何もかも思考が投げやり傾向になってきて良くないと思うが…これも仕方がない。
切らしている必要な日用品とダンナの夕食を買ったら、私の夕食を買うお金が無い。
仕方がないので小さなおいなりさんの3個入りを買う。180円也。今日はこれが私の夕食だ。
これでも、いつものおにぎりひとつよりはだいぶ贅沢である。
けれども別の財布を取りだし、タバコだけはしっかり買う私…。
本当にお金がないと気持ちが塞ぐ。
痛くなった膝を抱えて帰途についた。
──明日こそはハロワに行かねば!
……不安。
愛兎のさかりを見て、春の訪れを知る

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久しぶりのパニック発作
2016/03/13
ここのところオリラジの『PERFECT HUMAN』が頭から離れず、閉口している私です。
そんなにオリラジ好きな訳でもないんですけど…。
これを書いている今も、ぐるんぐるん頭の中でリピートされております。
先日、母と待ち合わせてランチに行きました。
実家へ足を運ぶのとは別に、たまに母と外で待ち合わせてランチや買い物に行きます。
私が、誰か同行者がいると比較的街なかが平気になるのと(安心するのかもしれません)、母のストレス解消のためです。
母は楽天的な明るい性格なのですが、正反対に父は私と同じように悲観的で「うつ」の傾向があります。
父は肺を患っているため、呼吸がしんどく、長い歩行などは困難です。そのため家にこもりがちになっているのですが、そのストレスが母に向けられ、母が辛い思いしているのです。
毎日毎日厭世的なネガティブなことを口にされ、これではいくら楽天的な母も参ってしまうというもので、最近落ち着いていた血圧が高めになってしまいました。(もともと高血圧なのです)
母は「ストレスだと思うんだよ」とげんなりと口にしますが、あながちそれは間違いでもないと思うのです。
病人と暮らすということは、強い精神力が必要とされるとつくづく感じています。
今の状態の私がもし、結婚せずに家を出ていなかったら、年老いた父母を私のネガティブの波に一緒に飲み込ませてしまっていたかもしれません。そんなことをふと思うことがあります。
さて、いつも通りに私たちは店に向かいました。
そこはいつもランチをすると決めている店で、和風オーガニックレストランなのですが、魚や肉、とりわけ野菜が豊富な小鉢料理がとても美味しく、静かで落ち着いているので気に入っています。
私が混雑がダメなため、いつも開店と同時にくらいに入ると、空いているので良いのです。
しかしその日は少しして子供連れのお客さんが入ってきて、案の定しばらくして飽きた子供が甲高い奇声を上げ始めました。(これがまず、第一の要因だった気がします)
その日もいつもと同じように、母の愚痴をずっと聞きながら食事をしていました。
──父が二言目には「早く死にたい」「もう死んだ方がましだ」と口走ること、一日何もせずテレビばかりぼーっと見ていること、少しは歩いた方が良いので近所のスーパーまで誘っても来ないこと、食べ物の好みがうるさいこと……云々云々。
父の気持ちも、私の精神状態と似通っているところがあるので、理解できない訳ではありません。
けれども私が気をつけているのは、出来るだけネガティブなところを同居している家族に見せないようにしているということです。
家の中が暗くなるので、居心地の悪い思いを仕事で疲れて帰宅した家族にさせたくありません。
よほど苦しい時は何も告げずに「調子が悪いから」と早寝し、泣くのもひとりで泣いていました。
本当はこれは自分自身にとってはストレスになり良くないことなのかもしれませんが、私は自分が病気になったことに深い罪悪感があるので、家族をそれで振り回したくないという気持ちと、どうせ理解されないのだから、家族には下手に自分に立ち入ってもらいたくない…という諦めの境地でもあるのです。
まあ、これは人それぞれの考え方ですけれども。
父は、母には全てオープンで、いかに自分が辛い心情であるかを毎日しつこく吐露し、我儘を言い放題。
そのたびに母は父の言葉に傷つき、怒り、それでも我慢して日々を過ごしています。
父にとって母は、唯一心を許せる存在なので仕方がないとも思うのですが、それならばどうしてもう少し母を大切にしてあげられないのか。母の気持ちになって考えてみることをしないのか。母に甘えてばかりいるのか。
病人と言えど、相手に対して放つ言動にも、踏み越えてはいけない一線があるのではないか。
毎回、母の愚痴を聞くたびに、ふつふつとその思いが湧き上がってくるのを止められません。
私は父に対して少々、許せない部分があるのです。
そんな調子でいつもの通り母の話を聞いていましたが、子供の奇声が激しくなり、良く聞き取れません。
振り返ると食べ終わったお母さんが知らんふりでスマホを弄っているのが見えました。
それを目の当たりにした途端、母の話に集中出来なくなってしまい、デパスを飲もうとバッグを探っていると、母が殆ど料理に手を付けていないのに初めて気付きました。
「どうしたの?」
「なんか、変なの。食べられないのよ。」
「具合が悪いの?」
「大丈夫だと思うけど…。」
そう言いながら、母の目は虚ろです。
「眩暈がするような気がする…」
母は昔、メニエール病を患っていたことがあり、街なかで眩暈が起きて倒れ、救急車で運ばれたこともあるのです。
もう何十年も発作など起きていなかったのですが、父との生活でストレスが溜まり、ここのところ眩暈もたびたび起こる話を聞いていました。
母は落ち着かない様子で、どんどん顔色が悪くなってきました。
自分がデパスを飲むどころではありません。
すぐに母が携帯している薬を飲んでもらい、様子を見ていましたが良くなる気配がないので、今日はこのまま実家に送って行こうということになり、食事も半ばで帰り支度を始めたその時です。
キーン…と激しい耳鳴りとともに、動悸がいきなり始まりました。
鼓動はバクバクととても激しく、心臓が口から飛び出そうな勢いです。
同時に汗がぶわっと吹き出して来て、背中が急激に冷たくなるのを感じました。
久々に、私の方も「パニック発作」を起こしてしまったのです。
私の様子がおかしいのにすぐに気づいた母が心配そうに問うてくるのを落ち着かせ、すぐに震える手でデパスを掴み出して飲みました。
心配をさせては、ますます母の方も不安で具合が悪くなってしまう・・・そのことで頭が一杯でした。
この発作が起きるのは本当に久しぶりのことでした。
退職間近の頃は、毎朝のように通勤電車の中で発作に見舞われていましたが、仕事を辞めて家で療養するようになってからは、ここまでひどい発作は久しぶりだったのです。
そのことが不安に拍車をかけ、手まで震えて来てしまいました。
結局、食事どころではなくなったので母とふたりでしばらく外の椅子に座って休み、そのままタクシーで実家まで母を送って帰りました。
母も私も、実家についてしばらくすると落ち着きました。
パニック発作は、恐怖や不安に関係している神経伝達物質「ノルアドレナリン」と、興奮を抑える神経伝達物質「セロトニン」とのバランスが崩れるために起こると考えられています。
きっと、「子供の奇声」に対する恐怖感と、「母がここで倒れたらどうしよう」という強い不安感で、発作が起きてしまったのだと思います。
昔、友人とタイに旅行した時に、行きの飛行機の中で友人が具合が悪くなり、倒れたことがあります。
その時も、「このまま友人が大変なことなったら、タイに着いて私はどうしたらいいんだろう」と強く不安になり、自分もその後に倒れたことがありました。(ふたりで代わる代わる通路に寝かされていたので乗務員にびっくりされた。笑)
結局は無事にふたりで旅行を楽しむことが出来たのですが、その頃から、こうした兆候があったのかもしれません。
それにしても。
最近調子が良いな(何もする気のなくなる『だるだる病』を除いて)…なんていい気になっていたところに釘をさすように発作が起きてしまったので、その夜はたいそう落ち込んでしまいました。
なかなかこの病気は一筋縄ではいかないものですね……。
リニューアルしてピンク色の缶になったオールフリーコラーゲン。
可愛いけど、味も変わったのかな?よくわからんです。

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これを書いている今も、ぐるんぐるん頭の中でリピートされております。
先日、母と待ち合わせてランチに行きました。
実家へ足を運ぶのとは別に、たまに母と外で待ち合わせてランチや買い物に行きます。
私が、誰か同行者がいると比較的街なかが平気になるのと(安心するのかもしれません)、母のストレス解消のためです。
母は楽天的な明るい性格なのですが、正反対に父は私と同じように悲観的で「うつ」の傾向があります。
父は肺を患っているため、呼吸がしんどく、長い歩行などは困難です。そのため家にこもりがちになっているのですが、そのストレスが母に向けられ、母が辛い思いしているのです。
毎日毎日厭世的なネガティブなことを口にされ、これではいくら楽天的な母も参ってしまうというもので、最近落ち着いていた血圧が高めになってしまいました。(もともと高血圧なのです)
母は「ストレスだと思うんだよ」とげんなりと口にしますが、あながちそれは間違いでもないと思うのです。
病人と暮らすということは、強い精神力が必要とされるとつくづく感じています。
今の状態の私がもし、結婚せずに家を出ていなかったら、年老いた父母を私のネガティブの波に一緒に飲み込ませてしまっていたかもしれません。そんなことをふと思うことがあります。
さて、いつも通りに私たちは店に向かいました。
そこはいつもランチをすると決めている店で、和風オーガニックレストランなのですが、魚や肉、とりわけ野菜が豊富な小鉢料理がとても美味しく、静かで落ち着いているので気に入っています。
私が混雑がダメなため、いつも開店と同時にくらいに入ると、空いているので良いのです。
しかしその日は少しして子供連れのお客さんが入ってきて、案の定しばらくして飽きた子供が甲高い奇声を上げ始めました。(これがまず、第一の要因だった気がします)
その日もいつもと同じように、母の愚痴をずっと聞きながら食事をしていました。
──父が二言目には「早く死にたい」「もう死んだ方がましだ」と口走ること、一日何もせずテレビばかりぼーっと見ていること、少しは歩いた方が良いので近所のスーパーまで誘っても来ないこと、食べ物の好みがうるさいこと……云々云々。
父の気持ちも、私の精神状態と似通っているところがあるので、理解できない訳ではありません。
けれども私が気をつけているのは、出来るだけネガティブなところを同居している家族に見せないようにしているということです。
家の中が暗くなるので、居心地の悪い思いを仕事で疲れて帰宅した家族にさせたくありません。
よほど苦しい時は何も告げずに「調子が悪いから」と早寝し、泣くのもひとりで泣いていました。
本当はこれは自分自身にとってはストレスになり良くないことなのかもしれませんが、私は自分が病気になったことに深い罪悪感があるので、家族をそれで振り回したくないという気持ちと、どうせ理解されないのだから、家族には下手に自分に立ち入ってもらいたくない…という諦めの境地でもあるのです。
まあ、これは人それぞれの考え方ですけれども。
父は、母には全てオープンで、いかに自分が辛い心情であるかを毎日しつこく吐露し、我儘を言い放題。
そのたびに母は父の言葉に傷つき、怒り、それでも我慢して日々を過ごしています。
父にとって母は、唯一心を許せる存在なので仕方がないとも思うのですが、それならばどうしてもう少し母を大切にしてあげられないのか。母の気持ちになって考えてみることをしないのか。母に甘えてばかりいるのか。
病人と言えど、相手に対して放つ言動にも、踏み越えてはいけない一線があるのではないか。
毎回、母の愚痴を聞くたびに、ふつふつとその思いが湧き上がってくるのを止められません。
私は父に対して少々、許せない部分があるのです。
そんな調子でいつもの通り母の話を聞いていましたが、子供の奇声が激しくなり、良く聞き取れません。
振り返ると食べ終わったお母さんが知らんふりでスマホを弄っているのが見えました。
それを目の当たりにした途端、母の話に集中出来なくなってしまい、デパスを飲もうとバッグを探っていると、母が殆ど料理に手を付けていないのに初めて気付きました。
「どうしたの?」
「なんか、変なの。食べられないのよ。」
「具合が悪いの?」
「大丈夫だと思うけど…。」
そう言いながら、母の目は虚ろです。
「眩暈がするような気がする…」
母は昔、メニエール病を患っていたことがあり、街なかで眩暈が起きて倒れ、救急車で運ばれたこともあるのです。
もう何十年も発作など起きていなかったのですが、父との生活でストレスが溜まり、ここのところ眩暈もたびたび起こる話を聞いていました。
母は落ち着かない様子で、どんどん顔色が悪くなってきました。
自分がデパスを飲むどころではありません。
すぐに母が携帯している薬を飲んでもらい、様子を見ていましたが良くなる気配がないので、今日はこのまま実家に送って行こうということになり、食事も半ばで帰り支度を始めたその時です。
キーン…と激しい耳鳴りとともに、動悸がいきなり始まりました。
鼓動はバクバクととても激しく、心臓が口から飛び出そうな勢いです。
同時に汗がぶわっと吹き出して来て、背中が急激に冷たくなるのを感じました。
久々に、私の方も「パニック発作」を起こしてしまったのです。
私の様子がおかしいのにすぐに気づいた母が心配そうに問うてくるのを落ち着かせ、すぐに震える手でデパスを掴み出して飲みました。
心配をさせては、ますます母の方も不安で具合が悪くなってしまう・・・そのことで頭が一杯でした。
この発作が起きるのは本当に久しぶりのことでした。
退職間近の頃は、毎朝のように通勤電車の中で発作に見舞われていましたが、仕事を辞めて家で療養するようになってからは、ここまでひどい発作は久しぶりだったのです。
そのことが不安に拍車をかけ、手まで震えて来てしまいました。
結局、食事どころではなくなったので母とふたりでしばらく外の椅子に座って休み、そのままタクシーで実家まで母を送って帰りました。
母も私も、実家についてしばらくすると落ち着きました。
パニック発作は、恐怖や不安に関係している神経伝達物質「ノルアドレナリン」と、興奮を抑える神経伝達物質「セロトニン」とのバランスが崩れるために起こると考えられています。
きっと、「子供の奇声」に対する恐怖感と、「母がここで倒れたらどうしよう」という強い不安感で、発作が起きてしまったのだと思います。
昔、友人とタイに旅行した時に、行きの飛行機の中で友人が具合が悪くなり、倒れたことがあります。
その時も、「このまま友人が大変なことなったら、タイに着いて私はどうしたらいいんだろう」と強く不安になり、自分もその後に倒れたことがありました。(ふたりで代わる代わる通路に寝かされていたので乗務員にびっくりされた。笑)
結局は無事にふたりで旅行を楽しむことが出来たのですが、その頃から、こうした兆候があったのかもしれません。
それにしても。
最近調子が良いな(何もする気のなくなる『だるだる病』を除いて)…なんていい気になっていたところに釘をさすように発作が起きてしまったので、その夜はたいそう落ち込んでしまいました。
なかなかこの病気は一筋縄ではいかないものですね……。
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今日も戦っている
2016/03/11
今日、母とランチの約束をしていたので電車に乗っていたら、「東日本大震災発生の時刻に合わせ、緊急停止訓練を行いますのでご了承ください。」とのアナウンスが。
──あれからもう5年も経ったんだな…と改めて感慨にふける私。
「もう5年」なのか「まだ5年」なのか、それは人によって違うだろう。
「早いわねえ、もう5年よ。」
「あっという間ねえ。」
…のような会話を、目の前に座ったおばさんふたりが繰り広げていた。
(耳栓しているのでそう大きくない声はあまり聞こえない)
当たり前と思っていた日常はある日突然、なんとも脆くあっけなく崩れ去ることを知ったあの日。
平穏であることが、一番の幸福なのだという思いを噛みしめたあの日。
死者、行方不明者合わせて2万人近く。
まさに未曽有の大災害だった。
東日本大震災が、世界的に見ても危険なレベルの地震であったことをこの動画を観て知り、その桁違いな規模の大きさに驚愕した。
私はあの日、一人で家で掃除をしていた。
ちょうど派遣切りに遭って無職になった頃だったのだ。
カタカタカタ…とガラス戸が揺れたので、「ああ、また地震か。」くらいに思った次の瞬間。
ゴゴゴ…と地鳴りが聞こえ、「これはヤバい!」と立ち上がった途端にひどい揺れが来た。
物がどんどん棚から落ち、家具は大きく前後左右に揺れている。
あちこちがきしむ不気味な音がする。
古いアパートだったので、潰れないかと心配になった。
それでも気丈に(?)ドアをすぐ開け、部屋に戻ると同時に、今まで流れていたドラマの再放送が緊急放送に切り替わったのだ。
私はその瞬間に初めて、「恐怖」を感じた。
周りの家から次々に人が飛び出して来る。
「宮城で震度8だってよ!」「東北の方が震源だってよ!」
誤報かどうかも判らない叫び声があちこちから飛んでくる。
同じアパートに若い妊婦さんがいて、外の階段のへりにしがみついていた。
初めて見る顔だった。
「大丈夫ですか?」と声をかけると、よろよろと立ち上がってこちらへ走ってきた。
大きなお腹で、一人で、さぞ心細かったのだろう。
真っ青な顔で私に擦り寄ってきた。
その後も余震が続く中、
「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ。」
と、ずっと妊婦さんの手を握っていた。
何度もテレビで流れる津波の映像、飲み込まれていく町。
何もかもが自粛になり、何度も何度も流される同じCM。
もう脳には緊急地震速報の音と共に深く刻み込まれてしまった。
被災地以外のところでも、徐々に物資不足が深刻になる。
品薄の商品を、制限数が設けられているにも関わらず、両手に抱えて買っていく人達。
水も生理用品も手に入らない。
「譲り合い」ってなんだろう。「思いやり」ってなんだろう。
そんなことを思ったりした。
私はその頃まだ、「壊れかけ始めていた」状態で、生活に支障が出るようなレベルの症状はなかった。
自分でも気づいていないほどの些細な変化がちょうど現れ始めていた頃だと思う。
被災地以外でも、震災が原因でPTSDやうつ病になった人がその後急増したと言う。
私の友人もその一人だ。
友人は実はとても繊細な人で、その内面の繊細さを粗暴な言葉遣いでくるみ隠しているような人だった。
一人暮らしで震災に遭い、それが引き金でうつ病になってしまったのだ。
あの時の恐怖が忘れられず、とにかく家にひとりで居られなくなった。
そのうちに誘っても出てこないようになり、とうとう住んでいたマンションを引き払い、実家に帰った。
それから彼女とは音信不通だ。
今は元気にしてくれていると良いのだが。
毎年この日になると、彼女のことを思い出す。
5年経ち、被災地の様子を伝える番組を、私は暖房の利いた部屋でひとり観ている。
まだまだ復興は途中で、それでも気丈に、生きていくことに前向きな人々。
もしも今の私が被災者だったなら、あんなに気丈に生きられるだろうか。
「生きていく」ことにはエネルギーが要る。
うつになってからそれを実感している私だが、被災地の人々は何もかも失っても、それでも生きていこうと必死に前を向いている。
自ら命を絶ってしまった人たちもいるけれど、沢山の人が、日々必死に戦いながら「生きている」。
それをどう捉えるか、それを見て今の自分をどう思うか。
「生かされていることは幸せだ。」
「生きてるだけで幸せだ。」
誰もが口にするその言葉。
全くその通りだとは思う。
けれどもそういう言葉に今はあまり安易に同調できない、情けない自分がいる。
ただ思う。
人はみんな戦っている。
戦うステージはみんな、違うけれども。
改めて。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
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──あれからもう5年も経ったんだな…と改めて感慨にふける私。
「もう5年」なのか「まだ5年」なのか、それは人によって違うだろう。
「早いわねえ、もう5年よ。」
「あっという間ねえ。」
…のような会話を、目の前に座ったおばさんふたりが繰り広げていた。
(耳栓しているのでそう大きくない声はあまり聞こえない)
当たり前と思っていた日常はある日突然、なんとも脆くあっけなく崩れ去ることを知ったあの日。
平穏であることが、一番の幸福なのだという思いを噛みしめたあの日。
死者、行方不明者合わせて2万人近く。
まさに未曽有の大災害だった。
東日本大震災が、世界的に見ても危険なレベルの地震であったことをこの動画を観て知り、その桁違いな規模の大きさに驚愕した。
私はあの日、一人で家で掃除をしていた。
ちょうど派遣切りに遭って無職になった頃だったのだ。
カタカタカタ…とガラス戸が揺れたので、「ああ、また地震か。」くらいに思った次の瞬間。
ゴゴゴ…と地鳴りが聞こえ、「これはヤバい!」と立ち上がった途端にひどい揺れが来た。
物がどんどん棚から落ち、家具は大きく前後左右に揺れている。
あちこちがきしむ不気味な音がする。
古いアパートだったので、潰れないかと心配になった。
それでも気丈に(?)ドアをすぐ開け、部屋に戻ると同時に、今まで流れていたドラマの再放送が緊急放送に切り替わったのだ。
私はその瞬間に初めて、「恐怖」を感じた。
周りの家から次々に人が飛び出して来る。
「宮城で震度8だってよ!」「東北の方が震源だってよ!」
誤報かどうかも判らない叫び声があちこちから飛んでくる。
同じアパートに若い妊婦さんがいて、外の階段のへりにしがみついていた。
初めて見る顔だった。
「大丈夫ですか?」と声をかけると、よろよろと立ち上がってこちらへ走ってきた。
大きなお腹で、一人で、さぞ心細かったのだろう。
真っ青な顔で私に擦り寄ってきた。
その後も余震が続く中、
「大丈夫ですよ、大丈夫ですよ。」
と、ずっと妊婦さんの手を握っていた。
何度もテレビで流れる津波の映像、飲み込まれていく町。
何もかもが自粛になり、何度も何度も流される同じCM。
もう脳には緊急地震速報の音と共に深く刻み込まれてしまった。
被災地以外のところでも、徐々に物資不足が深刻になる。
品薄の商品を、制限数が設けられているにも関わらず、両手に抱えて買っていく人達。
水も生理用品も手に入らない。
「譲り合い」ってなんだろう。「思いやり」ってなんだろう。
そんなことを思ったりした。
私はその頃まだ、「壊れかけ始めていた」状態で、生活に支障が出るようなレベルの症状はなかった。
自分でも気づいていないほどの些細な変化がちょうど現れ始めていた頃だと思う。
被災地以外でも、震災が原因でPTSDやうつ病になった人がその後急増したと言う。
私の友人もその一人だ。
友人は実はとても繊細な人で、その内面の繊細さを粗暴な言葉遣いでくるみ隠しているような人だった。
一人暮らしで震災に遭い、それが引き金でうつ病になってしまったのだ。
あの時の恐怖が忘れられず、とにかく家にひとりで居られなくなった。
そのうちに誘っても出てこないようになり、とうとう住んでいたマンションを引き払い、実家に帰った。
それから彼女とは音信不通だ。
今は元気にしてくれていると良いのだが。
毎年この日になると、彼女のことを思い出す。
5年経ち、被災地の様子を伝える番組を、私は暖房の利いた部屋でひとり観ている。
まだまだ復興は途中で、それでも気丈に、生きていくことに前向きな人々。
もしも今の私が被災者だったなら、あんなに気丈に生きられるだろうか。
「生きていく」ことにはエネルギーが要る。
うつになってからそれを実感している私だが、被災地の人々は何もかも失っても、それでも生きていこうと必死に前を向いている。
自ら命を絶ってしまった人たちもいるけれど、沢山の人が、日々必死に戦いながら「生きている」。
それをどう捉えるか、それを見て今の自分をどう思うか。
「生かされていることは幸せだ。」
「生きてるだけで幸せだ。」
誰もが口にするその言葉。
全くその通りだとは思う。
けれどもそういう言葉に今はあまり安易に同調できない、情けない自分がいる。
ただ思う。
人はみんな戦っている。
戦うステージはみんな、違うけれども。
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唇をハサミでジョキジョキされた話
2016/03/09
今日は心療内科でした。
ざわざわ感は薬の副作用であるのかもしれないが、もう少し様子を見るとのことで落ち着きました。
以前よりは大分ましになり、ざわざわ感のない日も増えて来たので、私もそれで納得です。
聴覚過敏の方は相変わらず駄目で、一日のうち5分でも良いので耳栓を外してみるようにとまた言われてしまいました。
「いきなり外して一日過ごすっていうのは絶対に無理だから、少しずつ様子を見て外して行けるように段階を踏んでね。」
……無理です、先生(泣)
一度、このままではいけないと奮い立って家で試してみましたが、5分と経たないうちに不安感が強くなり、動悸がしてきたのでデパスをODしてしまいました。
果たして私に耳栓をせずに生活できる日が来るのでしょうか。
次回は血液検査を行うとのことで、しかも夕方の時間帯しか予約がとれずに落ち込んで帰途につきました。
その時間帯では薬局も激混みだし、間違いなく帰りはラッシュにぶつかるでしょう。
二週間後のことを思い、今から憂鬱な気分で冷たい雨の中を歩きました。
ついこの間までの暖かさが嘘のように、今日は寒の戻りで肌寒い一日です。
こういうふうに気温差の激しい時、私は唇が痛くなります。
何故かというと、もう十年以上前になりますが、私は唇の手術をしたのです。
唇の内側にあるその跡がしこりみたいになっていて、そこがじくじくと疼くのです。
その頃、私は入籍したばかりのダンナともう一緒に住み始めていました。
働いていましたが、勤務地は遠く、家事や結婚式の準備などに追われ、くたくたになって急性胃腸炎で緊急入院したり、散々な日々を送っていました。(詳細はこちらに)
しかしそれだけでは済まなかったのです。
ことの発端は、本当にちょっとしたことで。
会社で階段を下りている途中、ぐぎっと唇の内側を噛んでしまったのです。
飴か何かを口に入れていたのかもしれませんが、もうよく覚えていません。
ただ、異様に大きな「ぐぎっ」という様な音がして、酷い痛みに襲われました。
「ああ、ここ口内炎になっちゃうかも。嫌だなあ、結婚式が近いのに…」くらいにその時は思っていたのですが。
数日経って、私は口の中に違和感を感じました。
鏡で恐る恐る見てみると…。
口内炎どころか、唇の裏側が大豆くらいにぷっくりと丸く腫れているではありませんか!
私は慌てて歯医者に駆け込み、塗り薬と抗生物質の飲み薬(だったかな?)をもらって数日様子を見たのですが、腫れはどんどん大きくなるばかりで、一向に治まる気配がありません。
歯医者に再び行くと、
「これはここでは治せない。大学病院を紹介するので、そちらで診てもらった方がいい。」とのお言葉。
私はもう、半泣き状態で大学病院に駆け込みました。
すると、噛みどころがどうも悪かったそうで、唇の裏側にある唾液腺をざっくりと歯で切断しちゃったみたいなのです。
潰れた唾液腺のところにこぶができ、そこに分泌された唾液が溜まりに溜まっているとのこと。
放置しておくと、溜まった唾液は自然に吸収されますが、また溜まってこぶが膨らむと言うのです。
「これは手術してこぶを切り取らないとダメだね。」
私は青ざめました。数日後には結婚式が控えていたのです。
こぶはどんどん大きくなって、もはや唇がちゃんと閉じられない大きさにまで膨れ上がっていました。
先生にそれを訴えると、「それでは応急処置をしておいて、手術は結婚式の後にしましょう。もしものことがあっては大変なので。」
──もしものことって何!!!?
その時は溜まった唾液を抜いてもらって、手術の日取りを決めて帰った気がするのですが、あまりのショックに私はふらふらと電車に乗り、絶望しつつ帰宅したのを覚えています。
なんだってこんな時に!この間入院したばっかりだと言うのに!
(後で気が付いたのですが、厄年でした)
結婚式までにまた唇が腫れてきてタラコみたいになっちゃったらどうしようとか、悪夢にうなされ、散々心配しましたが、何とか無事に式を挙げることができました。
けれども結婚式の時の写真を見ると、どの写真の私も不自然に口を開けているのが判ります(笑)
その後、改めて大学病院で手術をしたのですが、もう散々でした。
下唇をびろーんと下にまくり上げられた形で両側からがっちり固定され(いかりや長介か私は)、珍しい事例だと言うので、先生の背後には、興味津々な様子の若い研修医の集団が。その視線は私の唇に釘付けです。
──もうほんと、まだ若かった私は恥ずかしさで死にたくなりましたよ、あの時は……。
そして麻酔をして、手術が始まったのですが。
この話をダンナにしたら「うそだあー。」と言われたんですが、メスじゃなく(まあ切れ込みは入れたかもしれないけど)、ハサミでジョキジョキと切られました。
局部麻酔をかけられた私は意識はしっかりあったので覚えているのですが、メスですーっと切られるとばかり思っていたので、目を閉じた頭の中にいきなり「ジョキジョキ」という鈍い音が響き渡ったので驚愕しました。
切ったものを見せてもらったんですが、白いなめこみたいでした。
それを見て「おー」とか「ほー」とか言ってる研修医達……(泣)
手術は日帰りで、帰宅してこれまた恐る恐る鏡を見たら、黒い糸で思いっきり大雑把に縫われていました。
赤い口の中に黒い糸…。
この絶妙な色のコントラストにぞーっとしたのを覚えています。
(麻酔無しなので抜糸が一番痛かった)
そんな訳で、目立った傷跡こそ残っていませんが、今も舌で触るとこりこりとしたしこりがあるのが判ります。
十年以上経ってもこのしこりは消えないので、もうこのままなのでしょう。
今日のように急に寒くなったりして、このしこりが疼くたびに、あの「ジョキジョキ」という不快な音が耳の奥で響きます。そして思い出して身震いする私なのです。
──皆様も、口の中噛んじゃうのにはほんと、気をつけて下さいね。
暖かくなってきたので、ちいもなんかサカってます……。
やたらと寄ってきてしつこい。

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ざわざわ感は薬の副作用であるのかもしれないが、もう少し様子を見るとのことで落ち着きました。
以前よりは大分ましになり、ざわざわ感のない日も増えて来たので、私もそれで納得です。
聴覚過敏の方は相変わらず駄目で、一日のうち5分でも良いので耳栓を外してみるようにとまた言われてしまいました。
「いきなり外して一日過ごすっていうのは絶対に無理だから、少しずつ様子を見て外して行けるように段階を踏んでね。」
……無理です、先生(泣)
一度、このままではいけないと奮い立って家で試してみましたが、5分と経たないうちに不安感が強くなり、動悸がしてきたのでデパスをODしてしまいました。
果たして私に耳栓をせずに生活できる日が来るのでしょうか。
次回は血液検査を行うとのことで、しかも夕方の時間帯しか予約がとれずに落ち込んで帰途につきました。
その時間帯では薬局も激混みだし、間違いなく帰りはラッシュにぶつかるでしょう。
二週間後のことを思い、今から憂鬱な気分で冷たい雨の中を歩きました。
ついこの間までの暖かさが嘘のように、今日は寒の戻りで肌寒い一日です。
こういうふうに気温差の激しい時、私は唇が痛くなります。
何故かというと、もう十年以上前になりますが、私は唇の手術をしたのです。
唇の内側にあるその跡がしこりみたいになっていて、そこがじくじくと疼くのです。
その頃、私は入籍したばかりのダンナともう一緒に住み始めていました。
働いていましたが、勤務地は遠く、家事や結婚式の準備などに追われ、くたくたになって急性胃腸炎で緊急入院したり、散々な日々を送っていました。(詳細はこちらに)
しかしそれだけでは済まなかったのです。
ことの発端は、本当にちょっとしたことで。
会社で階段を下りている途中、ぐぎっと唇の内側を噛んでしまったのです。
飴か何かを口に入れていたのかもしれませんが、もうよく覚えていません。
ただ、異様に大きな「ぐぎっ」という様な音がして、酷い痛みに襲われました。
「ああ、ここ口内炎になっちゃうかも。嫌だなあ、結婚式が近いのに…」くらいにその時は思っていたのですが。
数日経って、私は口の中に違和感を感じました。
鏡で恐る恐る見てみると…。
口内炎どころか、唇の裏側が大豆くらいにぷっくりと丸く腫れているではありませんか!
私は慌てて歯医者に駆け込み、塗り薬と抗生物質の飲み薬(だったかな?)をもらって数日様子を見たのですが、腫れはどんどん大きくなるばかりで、一向に治まる気配がありません。
歯医者に再び行くと、
「これはここでは治せない。大学病院を紹介するので、そちらで診てもらった方がいい。」とのお言葉。
私はもう、半泣き状態で大学病院に駆け込みました。
すると、噛みどころがどうも悪かったそうで、唇の裏側にある唾液腺をざっくりと歯で切断しちゃったみたいなのです。
潰れた唾液腺のところにこぶができ、そこに分泌された唾液が溜まりに溜まっているとのこと。
放置しておくと、溜まった唾液は自然に吸収されますが、また溜まってこぶが膨らむと言うのです。
「これは手術してこぶを切り取らないとダメだね。」
私は青ざめました。数日後には結婚式が控えていたのです。
こぶはどんどん大きくなって、もはや唇がちゃんと閉じられない大きさにまで膨れ上がっていました。
先生にそれを訴えると、「それでは応急処置をしておいて、手術は結婚式の後にしましょう。もしものことがあっては大変なので。」
──もしものことって何!!!?
その時は溜まった唾液を抜いてもらって、手術の日取りを決めて帰った気がするのですが、あまりのショックに私はふらふらと電車に乗り、絶望しつつ帰宅したのを覚えています。
なんだってこんな時に!この間入院したばっかりだと言うのに!
(後で気が付いたのですが、厄年でした)
結婚式までにまた唇が腫れてきてタラコみたいになっちゃったらどうしようとか、悪夢にうなされ、散々心配しましたが、何とか無事に式を挙げることができました。
けれども結婚式の時の写真を見ると、どの写真の私も不自然に口を開けているのが判ります(笑)
その後、改めて大学病院で手術をしたのですが、もう散々でした。
下唇をびろーんと下にまくり上げられた形で両側からがっちり固定され(いかりや長介か私は)、珍しい事例だと言うので、先生の背後には、興味津々な様子の若い研修医の集団が。その視線は私の唇に釘付けです。
──もうほんと、まだ若かった私は恥ずかしさで死にたくなりましたよ、あの時は……。
そして麻酔をして、手術が始まったのですが。
この話をダンナにしたら「うそだあー。」と言われたんですが、メスじゃなく(まあ切れ込みは入れたかもしれないけど)、ハサミでジョキジョキと切られました。
局部麻酔をかけられた私は意識はしっかりあったので覚えているのですが、メスですーっと切られるとばかり思っていたので、目を閉じた頭の中にいきなり「ジョキジョキ」という鈍い音が響き渡ったので驚愕しました。
切ったものを見せてもらったんですが、白いなめこみたいでした。
それを見て「おー」とか「ほー」とか言ってる研修医達……(泣)
手術は日帰りで、帰宅してこれまた恐る恐る鏡を見たら、黒い糸で思いっきり大雑把に縫われていました。
赤い口の中に黒い糸…。
この絶妙な色のコントラストにぞーっとしたのを覚えています。
(麻酔無しなので抜糸が一番痛かった)
そんな訳で、目立った傷跡こそ残っていませんが、今も舌で触るとこりこりとしたしこりがあるのが判ります。
十年以上経ってもこのしこりは消えないので、もうこのままなのでしょう。
今日のように急に寒くなったりして、このしこりが疼くたびに、あの「ジョキジョキ」という不快な音が耳の奥で響きます。そして思い出して身震いする私なのです。
──皆様も、口の中噛んじゃうのにはほんと、気をつけて下さいね。
暖かくなってきたので、ちいもなんかサカってます……。
やたらと寄ってきてしつこい。

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なぜ私は「子供が苦手」なのか
2016/03/07
先日、主治医に「どういう類の音が一番苦手か。」と訊かれたので、「上階からの物音です。」と即答した私。
「他には?」
「人の大きな話し声が駄目です。あとは子供の声も。」
「子供が嫌いな訳じゃないんでしょ?」
「嫌いです。というか、苦手です。」
「──え?それはどうして?」
…結婚もしているのに、何故ゆえに?!…と明らかに引いた感じの主治医を前に、私は返答に困ってしまいました。
私は「子供が苦手」です。
(嫌いです…と言うと語弊があるので、ここでは『苦手です』に留めておきます)
どうしてなのかはっきりとは自分でも良く判らないのですが、うつになるずっと前からのことで、うつになってからは子供の嬌声が特にダメで、「子供が苦手」に拍車がかかりました。
若い頃から、周りの皆が大抵そうであるように「早く結婚して子供を作りたい」と思ったことなど一度もありません。
けれども子供が傍に来るのが苦痛であるほど嫌か(今はそうですが)と言われたら、昔はそうではなかったのです。
自分の甥っ子は今も可愛くて仕方がないし、公園などで遊ぶ小さな子供を「可愛いな」と思うこともあるし、飲み会に友人が子供を連れてくると一緒になって遊び、「子供の扱い上手いね~。」と驚かれたりしたこともありました。
けれども、「苦手かそうでないか」と訊かれたら、きっぱりと「苦手です」と答えます。
注:「子供が苦手」と言うとなかなか周りに理解を得られない風潮がありますし、今回のこの話題はナーバスなので、不愉快な思いをされた方がいらっしゃったら申し訳ないのですけれども…。
あくまで私の自己総括みたいなものなので、ご容赦下さい。
いくら「子供が苦手」といっても、それに全く触れないようにして生きていくのは不可能です。
私にも人並みの社会性はあるので、そのへんは承知して生きてきました。
けれども、「苦手」なものは「苦手」なので、もうどうしようもありません。
友人に子供が産まれればお祝いがてら顔を見に行きますが、一度でもう沢山です。
(あの、皆で口々にカワイーカワイー言いまくるその場の雰囲気が苦手です)
出産で辞めた同僚が、子供が産まれると職場にわざわざ見せに来ることもありましたが、そういうのも迷惑に感じていたし、そもそも興味が無いので何と言ってあげればいいのか判らなかったので、親しく付き合っていた人以外、見に行きませんでした。
電車の中やスーパーなどで走り回って奇声を上げている子供など、見ているだけで動悸がして来ます。
自分なりに分析してみたのですが、もしかしたらこれが、私の「子供が苦手」を一層酷くした原因じゃないか…と思うものに、ふたつのトラウマがあります。
ひとつは、以前住んでいたアパートで、子供のたてる騒音に日々悩まされ、抑うつ状態になってしまったこと。
それがやがて、今現在苦しめられている「聴覚過敏」へと繋がります。
(詳細はこちらに)
もうひとつは、もう十数年前のことになります。
その時私は、仕事帰りに街でしこたま買い物をし、大きな荷物でよろよろと歩いていました。
すると、歩道の両側に沢山の人だかりが出来ているのです。
「?」と不審に思いつつ人ごみを縫うように歩いていると、どうやらその日は商店街のお祭りか何かなのだということに気付ました。
そのうち、大音響とともにサンバカーニバル(・・・だったかな?)の行進が前から来るのが見えました。
そう広くもない歩道は、それを観るために場所取りしている人達で両側とも一杯だったのです。
そうとは知らずに真ん中を歩いていた私には、左右、前後を見回してももう逃げ場がありませんでした。
このままではもろに行進にぶつかってしまう・・・と焦った私は、ちょっと隙間の出来ていた場所に取りあえず飛び込みました。
が。飛び込んですぐに、後悔しました。
そこは小学生くらいの子供たちが座り込んで場所取りをしていたのです。
私はそうした彼らの前に、大きな荷物で立ちふさがるような格好になってしまいました。
一斉に私に浴びせられる、子供たちの怒鳴り声。
「みえなーい!!」「みえなーい!!!!」
これは完全に私が悪かったのですが、もう行列はそこまで来ていて、どうにも抜き差しならない状態でした。
慌てて子供たちの背後に回ろうと人ごみの中で焦って動こうとした私に、今度は子供たちの保護者から怒号が浴びせられました。
「なにやってるのよ!どきなさいよ!」
「子供が見えないでしょう!どきなさいよっ!」
──すみません、すみませんと私は半泣きになりながら、仕方なくサンバカーニバルの真ん前に飛び出し、重い荷物を引きずるようにしてもみくちゃにされながら行列を逆行して、その場を後にしました。
その時の子供の声や保護者からの怒号は、今でも耳に残っていて、ふとした時に脳の海の浅いところまで登ってきます。
そうすると、またあの動悸や耳鳴りが始まるのです。
それから私は、前にもまして「子供が苦手」になりました。
正確に言えば、単体としての「子供」が苦手というよりも、「子供とその保護者の集団」が苦手になったのです。
街中で、奇声を上げている子供の傍には大抵保護者がいます。
けれども、その保護者はいたずらしている子供を諫めることもせず、スマホやお喋りと自分のことに必死で、子供がどんなに周りに迷惑をかけていようとも放置したままです。
私が本当に苦手なのは、「子供」ではなく、そういうシチュエーションなのかもしれません。
子供の嬌声と共にそういう光景を目にすると、動悸と耳鳴りが始まるので、極力子供連れの来るようなところへは行かなくなりました。
最近は「叱らない子育て」という考え方もあるらしいですが、「叱る」と「注意」は違うと思うのですが・・・。
けれども、子育てをしたこともない私がえらそうに御託を並べられる事柄ではありませんので、我慢しています。
なので、たまにきちんと子供を叱りつけている保護者の方を見かけると、感動すら覚えてしまうのです。
「子供を産んだら、変わるのかな?」と二人の男の子を持つ妹に尋ねたことがありました。
「そんなことないよ。私だって自分の子は可愛いけどさ、よその子は大嫌い!」
……妹もあまり子供が得意な方ではないので、色々と苦労しているようです。
「子供が苦手」「子供が嫌い」という人間は、子供を自分と同じ「目の高さ」で見ていると言います。
つまり、「これが出来ないのも、あれが出来ないのも子供だから仕方がない」と、大人の目線で寛容に見遣ることが出来ず、子供を未熟であるものとしてではなく、自分と同等に「完全な大人」として見ている、というのです。
だから、嬌声をあげたり、してはいけないことをしたりするのを許すことが出来ず、不愉快に思うらしいのです。
自分にそれが当てはまるかどうかというと、当てはまる気もするのです。
確かに私は、「子供だから仕方がない」という柔らかい感情で、子供が騒いだり悪戯したりするのを見守ってあげることは出来ません。ただひたすらに「厄介な存在だ」と始めから認識してしまっている気もします。
「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」という、永六輔さんの言葉がありますけれども、なかなか寛容になれない私は不完全な人間なのでしょうか。
今日も悶々とした気持ちを抱えて、保育園児たちの行列の横を足早に通り過ぎる私です。
最近、脳が疲れているのか甘いものばっかり食べてる。
サークルKサンクスの「ラズベリーのチーズケーキ」美味しい。

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「他には?」
「人の大きな話し声が駄目です。あとは子供の声も。」
「子供が嫌いな訳じゃないんでしょ?」
「嫌いです。というか、苦手です。」
「──え?それはどうして?」
…結婚もしているのに、何故ゆえに?!…と明らかに引いた感じの主治医を前に、私は返答に困ってしまいました。
私は「子供が苦手」です。
(嫌いです…と言うと語弊があるので、ここでは『苦手です』に留めておきます)
どうしてなのかはっきりとは自分でも良く判らないのですが、うつになるずっと前からのことで、うつになってからは子供の嬌声が特にダメで、「子供が苦手」に拍車がかかりました。
若い頃から、周りの皆が大抵そうであるように「早く結婚して子供を作りたい」と思ったことなど一度もありません。
けれども子供が傍に来るのが苦痛であるほど嫌か(今はそうですが)と言われたら、昔はそうではなかったのです。
自分の甥っ子は今も可愛くて仕方がないし、公園などで遊ぶ小さな子供を「可愛いな」と思うこともあるし、飲み会に友人が子供を連れてくると一緒になって遊び、「子供の扱い上手いね~。」と驚かれたりしたこともありました。
けれども、「苦手かそうでないか」と訊かれたら、きっぱりと「苦手です」と答えます。
注:「子供が苦手」と言うとなかなか周りに理解を得られない風潮がありますし、今回のこの話題はナーバスなので、不愉快な思いをされた方がいらっしゃったら申し訳ないのですけれども…。
あくまで私の自己総括みたいなものなので、ご容赦下さい。
いくら「子供が苦手」といっても、それに全く触れないようにして生きていくのは不可能です。
私にも人並みの社会性はあるので、そのへんは承知して生きてきました。
けれども、「苦手」なものは「苦手」なので、もうどうしようもありません。
友人に子供が産まれればお祝いがてら顔を見に行きますが、一度でもう沢山です。
(あの、皆で口々にカワイーカワイー言いまくるその場の雰囲気が苦手です)
出産で辞めた同僚が、子供が産まれると職場にわざわざ見せに来ることもありましたが、そういうのも迷惑に感じていたし、そもそも興味が無いので何と言ってあげればいいのか判らなかったので、親しく付き合っていた人以外、見に行きませんでした。
電車の中やスーパーなどで走り回って奇声を上げている子供など、見ているだけで動悸がして来ます。
自分なりに分析してみたのですが、もしかしたらこれが、私の「子供が苦手」を一層酷くした原因じゃないか…と思うものに、ふたつのトラウマがあります。
ひとつは、以前住んでいたアパートで、子供のたてる騒音に日々悩まされ、抑うつ状態になってしまったこと。
それがやがて、今現在苦しめられている「聴覚過敏」へと繋がります。
(詳細はこちらに)
もうひとつは、もう十数年前のことになります。
その時私は、仕事帰りに街でしこたま買い物をし、大きな荷物でよろよろと歩いていました。
すると、歩道の両側に沢山の人だかりが出来ているのです。
「?」と不審に思いつつ人ごみを縫うように歩いていると、どうやらその日は商店街のお祭りか何かなのだということに気付ました。
そのうち、大音響とともにサンバカーニバル(・・・だったかな?)の行進が前から来るのが見えました。
そう広くもない歩道は、それを観るために場所取りしている人達で両側とも一杯だったのです。
そうとは知らずに真ん中を歩いていた私には、左右、前後を見回してももう逃げ場がありませんでした。
このままではもろに行進にぶつかってしまう・・・と焦った私は、ちょっと隙間の出来ていた場所に取りあえず飛び込みました。
が。飛び込んですぐに、後悔しました。
そこは小学生くらいの子供たちが座り込んで場所取りをしていたのです。
私はそうした彼らの前に、大きな荷物で立ちふさがるような格好になってしまいました。
一斉に私に浴びせられる、子供たちの怒鳴り声。
「みえなーい!!」「みえなーい!!!!」
これは完全に私が悪かったのですが、もう行列はそこまで来ていて、どうにも抜き差しならない状態でした。
慌てて子供たちの背後に回ろうと人ごみの中で焦って動こうとした私に、今度は子供たちの保護者から怒号が浴びせられました。
「なにやってるのよ!どきなさいよ!」
「子供が見えないでしょう!どきなさいよっ!」
──すみません、すみませんと私は半泣きになりながら、仕方なくサンバカーニバルの真ん前に飛び出し、重い荷物を引きずるようにしてもみくちゃにされながら行列を逆行して、その場を後にしました。
その時の子供の声や保護者からの怒号は、今でも耳に残っていて、ふとした時に脳の海の浅いところまで登ってきます。
そうすると、またあの動悸や耳鳴りが始まるのです。
それから私は、前にもまして「子供が苦手」になりました。
正確に言えば、単体としての「子供」が苦手というよりも、「子供とその保護者の集団」が苦手になったのです。
街中で、奇声を上げている子供の傍には大抵保護者がいます。
けれども、その保護者はいたずらしている子供を諫めることもせず、スマホやお喋りと自分のことに必死で、子供がどんなに周りに迷惑をかけていようとも放置したままです。
私が本当に苦手なのは、「子供」ではなく、そういうシチュエーションなのかもしれません。
子供の嬌声と共にそういう光景を目にすると、動悸と耳鳴りが始まるので、極力子供連れの来るようなところへは行かなくなりました。
最近は「叱らない子育て」という考え方もあるらしいですが、「叱る」と「注意」は違うと思うのですが・・・。
けれども、子育てをしたこともない私がえらそうに御託を並べられる事柄ではありませんので、我慢しています。
なので、たまにきちんと子供を叱りつけている保護者の方を見かけると、感動すら覚えてしまうのです。
「子供を産んだら、変わるのかな?」と二人の男の子を持つ妹に尋ねたことがありました。
「そんなことないよ。私だって自分の子は可愛いけどさ、よその子は大嫌い!」
……妹もあまり子供が得意な方ではないので、色々と苦労しているようです。
「子供が苦手」「子供が嫌い」という人間は、子供を自分と同じ「目の高さ」で見ていると言います。
つまり、「これが出来ないのも、あれが出来ないのも子供だから仕方がない」と、大人の目線で寛容に見遣ることが出来ず、子供を未熟であるものとしてではなく、自分と同等に「完全な大人」として見ている、というのです。
だから、嬌声をあげたり、してはいけないことをしたりするのを許すことが出来ず、不愉快に思うらしいのです。
自分にそれが当てはまるかどうかというと、当てはまる気もするのです。
確かに私は、「子供だから仕方がない」という柔らかい感情で、子供が騒いだり悪戯したりするのを見守ってあげることは出来ません。ただひたすらに「厄介な存在だ」と始めから認識してしまっている気もします。
「子供叱るな来た道だもの 年寄り笑うな行く道だもの」という、永六輔さんの言葉がありますけれども、なかなか寛容になれない私は不完全な人間なのでしょうか。
今日も悶々とした気持ちを抱えて、保育園児たちの行列の横を足早に通り過ぎる私です。
最近、脳が疲れているのか甘いものばっかり食べてる。
サークルKサンクスの「ラズベリーのチーズケーキ」美味しい。

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何もかも一生懸命やることないんだよ
2016/03/05
昨日、久々に夜の街に出て友人たちと飲み会をしました。
出かける前になってずどーんと億劫になってしまい、行くのをやっぱり止めようか・・・と思ったのですが、どうしても性格上「ドタキャン」が出来ない私です。
行くまでダラダラとPCをいじったり、タバコに逃げたりしていたのですが、もう支度をしないと間に合わない・・・というぎりぎりの時間になってようやく久々に化粧を始めました。変わって行く自分の顔を気色悪く感じ、服を着替えてもその不快感が消えませんでした。何だか仮面を被って武装したみたいな気分に陥りました。
夜の街は本当に久々で、しかも週末で送別会の季節とあって人の多さにくらくらします。
かつては飲み会大好きでうきうきと歩いた街なかを、私は人ごみを避けつつオドオドと決められた居酒屋に向かって歩きました。
耳栓はさすがに店の前で外し、店の扉が開くと、わーん…と物凄い喧騒と共に居酒屋独特のあの空気が私をめがけて押し寄せてきて、思わず後ずさりしてしまいました。
友人たちはもう来ていて、私を歓声とともに快く迎えてくれたので、何だか不意に涙がでそうになる私。
しばらく落ち着くまで、緊張のあまり誰とも目を合わせられなかったのですが、次第に自然に元通りに話せるようになりました。
「皆は仕事しているのに、私は毎日仕事もせずに非生産的な時間を費やしている…」という、例の焦燥感、罪悪感は今回は不思議と頭をもたげて来ませんでした。
というのも、今回会った友人たちは皆、私よりもだいぶ年下で、私だって彼女の年齢の頃は今の彼女たちのように必死に仕事をこなしていたのです。
「今まで一生懸命やってきたのだから、今は休む期間だよ。」行きの電車の中でぼんやりと、以前別の友人にそう言われたことを思い出したら、何だか気が楽になったのでした。
懐かしさが不安感や居心地悪さをだんだんと沈静化してくれて行き、目まぐるしく変わる話題や、皆の近況報告、職場で共に働いていた頃の思い出話などに花が咲き、混雑のために時間制だったのでたった2時間強でしたが、結果的には「行ってよかった」と気持ちの良い精神状態で帰途に着くことが出来ました。
ところで、私の近況報告ですが、もう面倒臭くなったので。
「ずっと家で専業主婦(無職主婦)してダラダラしてる」と、正直に伝えました。
すると、「身体の方はもういいの?」と訊かれたので、核心ついてきたな…と思いつつ、
「まだすっかり良くなってないんだけど、最初の頃に比べたらだいぶ良くなったよ。」
と答えたら、案の定、「どこが悪かったの?」と訊かれました。
──来たよ。来た来た。
内心、物凄く迷ったのですが、私は正直に今の自分の状態を伝えることにしました。
(うつになった経緯に関しては適当に濁しました。もう思い出したくないので)
雰囲気いかんではオープンにするのは止めようと思っていたのですが、こう単刀直入に核心に触れられては(昔からズバズバ突いてくる人なんです。(笑))誤魔化すのも面倒だし、何だか私自身も聞いて欲しい気持ちになっていたのです。
これは私にとって、物凄い内面の変化です。
今まで私は、友人にはほんの限られた人以外、うつであることには触れないで付き合って来ました。もちろん訊かれもしないのに自分からうつであることを告げたりはしませんが、近況などを訊かれても、言葉を濁して回避してきました。
何故かうつであることを告げることに後ろめたい気持ちがあり、告げたことによって相手も困惑するのではないか、下手に気を遣わせるのではないか…と不安で、どうしてもオープンにすることが出来ませんでした。
うつになったのは「恥ずかしいこと」「悪いこと」「弱いこと」と、自分の中にも長いこと、うつになった自分を恥じる劣等感がいつも心のどこかにこびり付いていたのです。
けれども、最近「もういいんじゃないか」という気持ちが心の中に芽生えつつあります。
頑張って頑張って仕事をしていたのも私。
けれども頑張って頑張りすぎて壊れてうつになったのも私。
そして今、それを立て直そうとひとり焦りながら必死に前を向こうとしているのも私なのです。
それは決して恥ずかしいことでも、いけないことでもありません。
私自身が「頑張りすぎた私」を認めてあげなければ、誰だって受け入れてくれないに決まっています。
告げると皆から「ま~た頑張りすぎちゃったんでしょう。」と一斉に言われてびっくり。
「昔から頑張りすぎなとこ、あったもんね。」
「そんなの適当にやればいいのにってとこも、きっちりやるから~。」
「絶対、受けるもんね。断らないの。」
「結構ナーバスだったよね。」
口々に、私のことを皆でそう評します。
私はびっくりしました。
自分では、それを出さないように気を遣っていたつもりだったのです。
本当は完璧主義で、神経質で、人に言われた小さなこともいつまでもグチグチと気にするネガティブな小心者の私。
それを見抜かれるのが嫌で、表面上ではいつも適当なことばかり口にしていて、皆を笑わせ、どちらかと言うと「大雑把」な人間を演じてきたつもりの私でした。
けれども皆はとっくに、そんな私の本質を見抜いていたのです。
「そんなにさ、何もかも一生懸命やることないんだよ。
皆テキトーなんだから。」
ひとりの言った言葉に皆笑いましたが、笑いながらも涙ぐみそうになった私です。
以前の私なら、憤慨して「それがだからできないんだよ!」と心の中で毒づいたかもしれません。
けれどもその時の私は、素直にその言葉に笑うことが出来たのです。
うつ病と診断されてもうすぐ2年。
診断される前のずっと不安定で不調だった時期を入れれば、もう5年近くなるかもしれません。
未だにアップダウンが激しく、落ちこんで寝込んだり、また這い上がったりの連続で、焦燥感や不安感や劣等感まみれの毎日ですが、確かに少しずつ、私の中では何かが変化しつつあるのかも・・・とふと思った夜でした。
色々食べたけど、結局コレに落ち着くのであった……

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行くまでダラダラとPCをいじったり、タバコに逃げたりしていたのですが、もう支度をしないと間に合わない・・・というぎりぎりの時間になってようやく久々に化粧を始めました。変わって行く自分の顔を気色悪く感じ、服を着替えてもその不快感が消えませんでした。何だか仮面を被って武装したみたいな気分に陥りました。
夜の街は本当に久々で、しかも週末で送別会の季節とあって人の多さにくらくらします。
かつては飲み会大好きでうきうきと歩いた街なかを、私は人ごみを避けつつオドオドと決められた居酒屋に向かって歩きました。
耳栓はさすがに店の前で外し、店の扉が開くと、わーん…と物凄い喧騒と共に居酒屋独特のあの空気が私をめがけて押し寄せてきて、思わず後ずさりしてしまいました。
友人たちはもう来ていて、私を歓声とともに快く迎えてくれたので、何だか不意に涙がでそうになる私。
しばらく落ち着くまで、緊張のあまり誰とも目を合わせられなかったのですが、次第に自然に元通りに話せるようになりました。
「皆は仕事しているのに、私は毎日仕事もせずに非生産的な時間を費やしている…」という、例の焦燥感、罪悪感は今回は不思議と頭をもたげて来ませんでした。
というのも、今回会った友人たちは皆、私よりもだいぶ年下で、私だって彼女の年齢の頃は今の彼女たちのように必死に仕事をこなしていたのです。
「今まで一生懸命やってきたのだから、今は休む期間だよ。」行きの電車の中でぼんやりと、以前別の友人にそう言われたことを思い出したら、何だか気が楽になったのでした。
懐かしさが不安感や居心地悪さをだんだんと沈静化してくれて行き、目まぐるしく変わる話題や、皆の近況報告、職場で共に働いていた頃の思い出話などに花が咲き、混雑のために時間制だったのでたった2時間強でしたが、結果的には「行ってよかった」と気持ちの良い精神状態で帰途に着くことが出来ました。
ところで、私の近況報告ですが、もう面倒臭くなったので。
「ずっと家で専業主婦(無職主婦)してダラダラしてる」と、正直に伝えました。
すると、「身体の方はもういいの?」と訊かれたので、核心ついてきたな…と思いつつ、
「まだすっかり良くなってないんだけど、最初の頃に比べたらだいぶ良くなったよ。」
と答えたら、案の定、「どこが悪かったの?」と訊かれました。
──来たよ。来た来た。
内心、物凄く迷ったのですが、私は正直に今の自分の状態を伝えることにしました。
(うつになった経緯に関しては適当に濁しました。もう思い出したくないので)
雰囲気いかんではオープンにするのは止めようと思っていたのですが、こう単刀直入に核心に触れられては(昔からズバズバ突いてくる人なんです。(笑))誤魔化すのも面倒だし、何だか私自身も聞いて欲しい気持ちになっていたのです。
これは私にとって、物凄い内面の変化です。
今まで私は、友人にはほんの限られた人以外、うつであることには触れないで付き合って来ました。もちろん訊かれもしないのに自分からうつであることを告げたりはしませんが、近況などを訊かれても、言葉を濁して回避してきました。
何故かうつであることを告げることに後ろめたい気持ちがあり、告げたことによって相手も困惑するのではないか、下手に気を遣わせるのではないか…と不安で、どうしてもオープンにすることが出来ませんでした。
うつになったのは「恥ずかしいこと」「悪いこと」「弱いこと」と、自分の中にも長いこと、うつになった自分を恥じる劣等感がいつも心のどこかにこびり付いていたのです。
けれども、最近「もういいんじゃないか」という気持ちが心の中に芽生えつつあります。
頑張って頑張って仕事をしていたのも私。
けれども頑張って頑張りすぎて壊れてうつになったのも私。
そして今、それを立て直そうとひとり焦りながら必死に前を向こうとしているのも私なのです。
それは決して恥ずかしいことでも、いけないことでもありません。
私自身が「頑張りすぎた私」を認めてあげなければ、誰だって受け入れてくれないに決まっています。
告げると皆から「ま~た頑張りすぎちゃったんでしょう。」と一斉に言われてびっくり。
「昔から頑張りすぎなとこ、あったもんね。」
「そんなの適当にやればいいのにってとこも、きっちりやるから~。」
「絶対、受けるもんね。断らないの。」
「結構ナーバスだったよね。」
口々に、私のことを皆でそう評します。
私はびっくりしました。
自分では、それを出さないように気を遣っていたつもりだったのです。
本当は完璧主義で、神経質で、人に言われた小さなこともいつまでもグチグチと気にするネガティブな小心者の私。
それを見抜かれるのが嫌で、表面上ではいつも適当なことばかり口にしていて、皆を笑わせ、どちらかと言うと「大雑把」な人間を演じてきたつもりの私でした。
けれども皆はとっくに、そんな私の本質を見抜いていたのです。
「そんなにさ、何もかも一生懸命やることないんだよ。
皆テキトーなんだから。」
ひとりの言った言葉に皆笑いましたが、笑いながらも涙ぐみそうになった私です。
以前の私なら、憤慨して「それがだからできないんだよ!」と心の中で毒づいたかもしれません。
けれどもその時の私は、素直にその言葉に笑うことが出来たのです。
うつ病と診断されてもうすぐ2年。
診断される前のずっと不安定で不調だった時期を入れれば、もう5年近くなるかもしれません。
未だにアップダウンが激しく、落ちこんで寝込んだり、また這い上がったりの連続で、焦燥感や不安感や劣等感まみれの毎日ですが、確かに少しずつ、私の中では何かが変化しつつあるのかも・・・とふと思った夜でした。
色々食べたけど、結局コレに落ち着くのであった……

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